結局、日本人のスポーツに対する「誤解」「誤読」は、このことを理解しないことに尽きるだろう。

今、視聴率争いで迷走しているNHK大河「いだてん」は、スポーツが日本にもたらされた当時のことを描いている。
日本スポーツの創始者、嘉納治五郎は、灘の酒造家の出身で、自身は柔道家だった。柔道をこれまでの「武道」からスポーツにしたのは嘉納だ。そしてオリンピックを日本にもたらし、日本中に学校スポーツを根付かせたのも嘉納だ。まさに日本スポーツ界最大の功労者だろう。

しかし嘉納のスポーツ観が「富国強兵」という明治日本の路線に沿っていたのも事実だ。スポーツは「単なる遊び」ではなく「強い兵隊」「強い労働力」を作る上でも有益であるという理屈が、当時の政財界の支持を得たのだ。

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その流れのままで、日本のスポーツはここまで来た。だからスポーツ指導者や、選手はスポーツを「疑似的な戦争」だと思っている。
「戦争」であるならば、勝たなくては意味がない。どんな手を使ってでも「勝つ」ことが必要だ。

高校野球も、その他の日本スポーツも、根底にはこういう意識が盤踞している。

その一方で、戦後、スポーツは「健康で文化的な生活を送る」という基本的人権の考えに基づいて、すべての国民が享受すべきものとされた。そういう意味ではスポーツは「楽しむ」ものであり、「戦争」とは真逆のものであったはずだ。
もちろん、スポーツは「勝敗を争う」ものであるから、それに向けて努力をすることが求められるが、結果として勝者も敗者も「楽しめなければ」スポーツではない。
どんなに全力で戦っても、それが「楽しむ」ことにつながらなければ、スポーツの存在意義はない。

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「きれいごと」と言われるかもしれないが、この「きれいごと」こそがスポーツの本質である。「スポーツマンシップ」は、スポーツを「きれいごと」として維持、存続させるためにあるといってもよい。

日本人は「何が何でも勝つ」「命を懸けて勝つ」「相手を殺す気で戦う」みたいなのが大好きだ。言い換えれば「戦争好き」なのだろう。
明治以来、スポーツをそういうものだと思ってきた日本人の意識が、野球で言えば世界の他の国がどこもやっていない「投手の酷使」や「サイン盗み」「汚いヤジ」などの恥ずべき行為につながっている。

この部分を改めなければ、日本スポーツの未来はない。

野球やその他のスポーツの「改革」は、日本のスポーツを「戦争ごっこ」から「きれいごと」に戻す取り組みなのだ。

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2016・18年松坂大輔、全登板成績

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