イチローがどういう思いで国民栄誉賞を辞退したのか、本当のところはわからない。私は午前に「引退の日のあの“ファンとのお別れ”を大事にしたいから」と推測したが、あくまで「推測」だ。
しかし、こうも思う。NPBからMLBに新天地を求める選手たちの意識の中には、「日本」という国の「共同体意識の強さ」「コミュニティへの帰属意識の強さ」そして「同調意識の強さ」にたいする嫌悪の感情があるのではないか。

高校時代は「学校のため」「先輩後輩のため」「郷里のため」「応援してくれる家族、支援者のため」。プロに入れば「ファンのため」「チームのため」、日本代表になれば「日本のため」「日本野球のため」。
野球だけではないが、日本では選手が出世するといろんな「ため」が付いて回るのだ。その「ため」の背景には多くの人々の「期待感」がある。「期待感」が巨大化し、変質して「圧力」になることもしばしばだ。

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アスリートの意識が高ければ、そうした境遇に身を置いているうちに「俺は、自分のためにスポーツをしているのではないのか?」という疑問がわいてくるだろう。自分の栄達のため、自分が金を稼いでいい生活をするため、そして自分の能力を伸ばして次なるレベルへ進んで満足を得るため、にスポーツをしているのではないか。
国家、郷里、母校、コミュニティの期待はありがたくはあるが、決してそういうもののために練習に励み、技術を磨いているのではない。
スポーツ選手が、一個の人間として「自我」を確立していれば、その辺の理屈を理解しているはずだ。
だから、表面的には「皆様のおかげでこうして頑張ることができます」と言いながら、内心は「自分のために頑張っているのさ」と思っていることだろう。

そう思えなくて、本当に「国家社会、郷土のため」と思ってしまったアスリートの中には、つぶれてしまう人もいる。「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と書置きをして自死した円谷幸吉は、その一例だ。

日本という国はこういう部分のデリカシーがない。多くのファンは、選手に勝手な期待を押し付けていることに無自覚だ。
だから甲子園やプロ野球で平気でバカ騒ぎができるのだが、特に海外で活躍するアスリートには、そうした日本の特殊性が、肌身にしみてわかっているのではないか。

国民栄誉賞を3度も断ったイチローは、心の底では「別に日本のため、あなたたちのために頑張ったわけではない」という気持ちがあるのかもしれない。「もらう筋合いがない」と思っているかもしれない。角が立つから口にすることはないだろうが。

それはそれで、尊重すべきだ。

私たちはイチローが大好きで、一生懸命応援したが、それは「勝手」にやったことで、そもそもイチロー本人とは何の関係もないからだ。

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2016・18年松坂大輔、全登板成績

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