読者の「ひろし」さんから非常に有意義な疑問が呈されたので考えたい。



松井秀喜が、星稜高校時代、明徳義塾との試合で「5敬遠」された話である。
ひろしさんは、

馬渕監督も明徳の選手も松井選手に「これはモノが違う」と感じたからこその敬遠でしょう。特にあの時の明徳の投手は「背番号8」の本職が外野の選手でした。「勝負したら打たれる」と思うのは当然ですし、そこには「松井選手に対する尊敬や賞賛」しか無いように感じます。
(中略)
「星稜」は5,6番打者が打てばビッグイニングにできたし、1塁走者松井にしても5番打者の苦手な変化球を投げさせないために盗塁やリードの走塁技術でバッテリーに圧力をかけることもできたのではないでしょうか。 それは広尾さんのいうところの「難題」であって、トライアルの機会さえ奪う「手段」とは思えません。野球は「チームスポーツ」ですから一人の強打者を全打席敬遠したからといって勝つチャンス、そのための「手段」はたくさん残っているはずではありませんか?

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このあたりが、日本とアメリカなど海外の野球、スポーツの「価値観」の違いだといえよう。

松井秀喜は「敬遠」されたことを「尊敬」「称賛」ととらえただろうか。彼はそうされて喜んだだろうか?「敬遠」というのは、日本語の意訳であって本来の「intentional Walk(意図的な四球」には尊敬のニュアンスはない。
敬遠はごく局所的な戦術としてかろうじて認められるものであって、試合における「打撃の機会」をすべて奪うことは、通常は考えられない。ましてやそれは「尊敬の念」とは無関係だ。
モータースポーツで、速い車を何らかの策を弄して「出走させない」ことが、その車、チームを「尊敬している」ことになるだろうか?

そもそも、スポーツマンシップは、チームスポーツであれ、個人スポーツであれ、「個人」のために存在する。なぜならあらゆるスポーツは、個人が「健康で文化的な生活を送る」ための「権利の一つ」だからだ。選手が互いをリスペクトするのは、互いの「スポーツをする権利」を尊重するためだ。松井秀喜という「個人」が、トライアルの機会を失われるのは、スポーツマンシップに悖るといえよう。

スポーツの世界ではせんじ詰めれば「チームより個人の権利が優先される」のだ。
日本のスポーツでは大量の補欠を作ることがよくある。「チームのためにベンチで応援してくれ」と言われて控えに回る選手は多い。これは日本だけの習慣だ。
アメリカでは、少年野球でも「控え」に回れば本人と親は別のチームへの移籍を考える。そのためのトライアウトが毎月のように行われている。

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私は2015年に馬渕監督に取材をした。別件だったが、馬渕さんが自ら「あのときのこと」を語った。相当気にしていると感じた。
「あのときは、ああでもして勝たなければ周りが承知しなかった。いろいろ言われたが、全部引き受けるつもりだった」とのことだった。

スポーツは、お互いに存分に力を発揮できる環境でやるものなのだ。勝利に拘泥して、スポーツマンシップに反することをするのは、たとえそれがルール内のことであっても許されない。これが世界のスタンダードだ。

よく例に出すが、日本の少年野球チームは、国際大会で実力差のある相手に四球で歩き、盗塁し、バントを多用して延々と攻め立てる。日本の指導者は「外国の野球とは緻密さが違う」と胸を張るが、海外の指導者は「お前らは確かに強いが、俺たちはお前らの野球の真似はしない」という。勝っても相手への敬意が感じられないからだ。

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スポーツにはルールの外側に、スポーツマンシップという重要な価値体系が存在している。だから、ルールとしては適合していても、「選択してはならない」プレーもあるのだ。「球数制限」議論における「待球作戦」なども同様だといえよう。

スポーツは戦争や殺し合いではない。「勝つこと」を目指すが「負けても構わない」ものだ。
日本以外の指導者なら、松井秀喜に打たれる可能性はあったかもしれないが、5打席すべて敬遠で歩かせるのではなく、得点圏に走者がいない状況では、二番手投手に全力でぶつかることを選択させたはずだ。そうしなければ松井秀喜や星稜をリスペクトしていないことになるからだ。

この違いを日本のスポーツ界はしっかり理解しなければならない。


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