今、「球数制限」についての本を書いているが、調べれば調べるほど、日本の野球界、スポーツ界は病んでいると思う。その患部は間違いなく指導者だ。

サンケイ
茨城県高萩市教育委員会は6日、記者会見し、市立中3年の女子生徒(15)が4月末、自殺したと明らかにした。所属する卓球部顧問の男性教諭から暴言を受けたとの文書が残されており、関連を調べている。同部は全国大会の出場歴がある強豪で、教諭は卓球指導のベテランという。

この指導者は部活中、「ばかやろう」「殺すぞ」などと言ったり、複数の部員の肩を小突いたりしたという。

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たかが中学校の部活で、この教師は何を求めていたのだろうか。
この男は自分が何のために中学の教諭をしているのかを理解しないまま、教員を続けてきたのだろう。
こうした指導者は、ひたすら、目の前の競技で「勝つこと」を目標にしている。そしてまだ中学生の子供に、そのためにすべてを犠牲にすることを強いている。

当たり前の話だが、教育者は子供が将来、一人前の人間として自立、自活できるための知識や判断能力、コミュニケーション力を身に着けさせるために存在している。
部活で頑張るのも、長い人生を生き抜くための心身の涵養とともに「気晴らし」の手段を与えるためだ。目の前の「勝利」は、そのための方法論でしかない。

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しかし、日本では指導者はどんなレベルでも「厳しいこと」「きついこと」が良いとされてきた。「楽しむ」ことは「悪」であるとされ、目の前のことに死に物狂いで取り組むのが良いとされた。親もそれを容認していたのである。

無責任なことに、親も教師も若いころにそうした体験をすると「どんな苦労にも耐えられる」と言い続けてきたのだ。牛や馬が殴られ、蹴られて人間に従順になるのと同じレベルで、我が子の教育を考えてきたのだ。
教育、指導には様々な方法論や選択肢がある。親も教師も、最適の教育について細かく吟味、検討する責任があるが、日本の親の中には「とにかく厳しくて、長時間子供を鍛えてくれるのが、熱心な先生」と思う人が多いのだ。一種の責任放棄だろう。

この教師は、人生というマラソンを走り始めた子供に、100mダッシュのような全力疾走を強いたのである。そんなことをすれば、途中で息が上がって続かなくなるのは自明なのに、子どもに罵声を浴びせ、脅かしてそうさせてきたのだ。
この女子中学生の自殺は「プロテスト」だと思う。自分の命をもってその教員が間違っていることを訴えかけたのだと思う。その行為そのものは残念だが、彼女の抗議は真っ当なものだ。

教育委員会は、この教員を「熱心さのあまり」と擁護したが、「熱心」なのではなく「エゴ」である。自分の思うとおりに子供を動かすために、脅迫を続けてきたのだ。

日本の学校、スポーツ界にはこの手の「熱心な指導者」がたくさんいる。これからの世の中のことを考えれば、そういう指導者は全員必要ない。目の前の勝利を追いかけるエゴイスト指導者は、すべて排除されるべきだろう。


10号本塁打一番乗り/セ・リーグ編

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