「ガッツポーズ」の議論をしていてちょっと驚いたのは「私はいいと思う」「気にならない」という意見がいくつかあったことだ。
「スポーツをする」という行為そのものは、私的なことだ。個人で発意してスポーツを始め、試合に出るまでは自分の意のままで動けばいい。

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しかし試合は「パブリック」なものである。観客がいるといないとにかかわらず、試合は他者との間で行われ、審判も立会い、記録も残る。
その試合においては「自分がやりたい」「自分がいいと思う」ことをそのままやって良いわけがない。
今の高校球児のガッツポーズなどは「自分がいいと思い」「仲間も喜んでくれる」からやっているのだろう。
しかし、試合には「相手」がいる。スポーツにおける対戦相手は、同じスポーツをする「仲間」ではあるが、それは広義のものであり、「身内」ではない。違う組織、チームに属する対戦相手への「敬意」は、「親密さ」「馴れ馴れしさ」ではなく、「折り目正しさ」と「勝敗にかかわらず相手の健闘を称える」ことによって示されなければならない。

「ガッツポーズ」に問題があるのは、「対戦相手への敬意」がまったくないからだ。
殊勲の大きさや、イベントによっては許される余地があるにしても、そこには対戦相手の「暗黙の了解」がなければならない。大変厳しいものだと思う。

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最近は、SNSの発達もあって「身内受け」の手段が極めて多彩になった。インスタグラムやLINEなどは「身内受け」を意図したコミュニケーションツールだろう。しかし、それは「身内」以外の者にとっては、何ら親密さを感じないものであり、中には不快感を抱かせるものもある。
いわゆる「バイトテロ」は、その最たるものだ。身内受けを狙った羽目外しの馬鹿騒ぎが、世間中に広まって身の破滅を招いている。

あえて言うが「身内受け」を狙ったパフォーマンスにはろくなものがないのだ。特に高校生など若い連中の「身内受け」は、幼稚で、無思慮のものが多い。
「ガッツポーズ」や野球にまつわる様々なパフォーマンスは、おそらくそうした「身内受け」の延長線上にある。

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スポーツやビジネスにおいては、常に「私」と「パブリック」は峻別されるべきだ。
パブリックの場においては「僕はいいと思う」「気にならない」は、通らない。「相手はどう思うか」「この場にふさわしか」が常に考慮されなければならない。



東京球場・シーズン最多本塁打打者/1962~1972

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