「代打ノムさん」は愛弟子・古田氏の発案 ヤクルトOB戦で粋な演出
野村克也は王貞治と同じ1980年にユニフォームを脱いだ。これを覚えているのは50代半ば以降のファンだろう。
何度も言っているが、1977年に南海ホークスを追われたとき、私は大学受験の最中だったが、人生の楽しみの半分が奪われたような気がしたものだ。

以後、ロッテ、西武と渡り歩いた。どのユニフォームも似合っていないと思った。あの頃の野村克也は不愛想で、暗くて、アウトローのにおいがしたものだ。

しばらくは解説者として糊口をしのいでいた。野村スコープとか言って、投球のコースを読んだりしていた。「男の股間をピコピコさせるのは卑猥だ」みたいな揶揄もされた。
当時、盟友と言われた森昌彦が
「野球知識の宝庫のようなノムさんを指揮官として復帰させないのは、球界の損失だ」みたいなことを言っていた。

で、ヤクルトに監督で復帰したのだ。
就任した1990年には広沢や池山、杉浦亨などもいたが、この年に入団した古田敦也を抜擢して、ここからヤクルトは「野村のチーム」になる。
さらに阪神、楽天と監督を歴任したわけだ。

私は野村の采配は辛気臭くて好きではない。また、野村は選手の育成はできないと思っているが、弱いチームを強くする術は知っていたと思う。
それに、野村監督のチームは、南海を除いて、それほど暗くないのだ。選手との年齢差が開くとともに、野村自身も子や孫に接するようになっていったのだろう。

ある時期まで、南海ホークスについて聞かれると「俺は西武のOBだから」とコメントを拒否していた。最近、ちょっと軟化しているようだが、昨日のOB戦の報道を見ていると、今は「俺はヤクルトのOBだから」と言いたくなっているのではないか。

PA291847


古田や池山など往時の選手たちに支えられて打席に立つ野村克也の写真は、一幅の絵のように美しかった。
もう「最晩年」と言っていいだろうが、野村克也は幸せな野球人生を送ったのではないか。


1983年槙原寛己、全登板成績【初登板初完封の衝撃、新人王に輝く】

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中!