もう一つ、野々村先生の発言に突っかかってしまうが、「日本野球は精神力で勝つ」というのも、今時全然だめだと思う。

日本野球が「野球道」と呼ばれたのは、戦前の大学野球が発端だ。
おそらくは早稲田の「一球入魂」発案者、飛田穂洲が、日本野球は「武道」のようなもの、と言ったのが最初だ。その時点では、おかしなものではなかった。「武道」とは、スポーツと日本の古武術の融合であって「礼儀正しい」「規律がある」「相手に敬意を表す」「力を合わせる」など、スポーツマンシップに近い考え方もたくさんあったのだ。

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しかし、軍隊が力を持つとともに「武道」も日本のスポーツも「強い兵隊」「喜んで死地に赴く兵隊」を作るための道具になってしまった。そして「上官、先任官には絶対服従」という軍隊式の強い上下関係が徹底されるようになり、どんどん変質していくのだ。
軍隊式のスポーツで鍛えられる精神力とは、端的に言えば「死や痛みの受容力」のことだ。恐怖に直面しても怖いと思わず、暴力やパワハラにも耐えることができることを日本人は「精神力」と言っているのだ。

中畑清は、駒澤大学時代に先輩から毎日バットで殴られ、罵声を浴びせられたが、これによって「精神力」が鍛えられ、どんな苦しいことにも耐えられるようになったといっている。

この発言でもわかるように、戦後、日本人の多くは精神力とは「恐怖や痛みを感じなくなること」だと思っていた。「感じない」から指導者や先輩のリンチにも耐えられるし、過酷な練習もできるようになる、炎天下でも動き回ることができる。しかし、それは言い方を変えれば「鈍感」になることであり、ある種の「馬鹿」になることでもある。

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スポーツは今、どんどん情報化が進み、選手には咄嗟の判断ができる思考力や鋭い感性が必要になってきている。そのためには状況を読む能力、自分の肉体を把握する能力、さらにはプレッシャーに打ち勝つ能力が必要になるが、残念ながら日本人が自慢する「精神力」は、そのどれにも役に立たない。

少し前まで国際大会では、苦しい練習に耐え抜いてきたはずの日本選手が、大舞台で惨敗するシーンがしばしば見られた。それは「上からやらされる」ことにはよく対応できても「自分で自分をコントロールする」ことができなかったからだ。
指導者に命じられればどんなことでもやり遂げるかもしれないが、自分の意志として「自分を落ち着ける」ことや「窮地を脱するために知恵を出す」ことは、日本流の「精神力」の鍛え方では身につかない。

そういう点でも日本の古臭い高校野球の指導は「もう使えない」と言っても良いのではないか?


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