ダルビッシュがツイッターで「開会式は必要か」という投げかけをしたようだ。いろんな反響があったようだが。



日本では学校の運動会のようなローカルなスポーツイベントでも大層な開会式をやる。

これは、日本のスポーツがオリンピックへの参加によって始まったことが大きいと思う。オリンピックは単なるスポーツイベントではなく、「国際的な融和」を目的としていたから、開会式、閉会式も大層なものになっている。
日本のスポーツイベントはこのスタイルをまねて、学校の運動会でも全生徒が行進し、校長先生や来賓があいさつをしたりするようになった。

高校野球の開会式も、オリンピックによく似ている。全選手が学校名のプラカードを先頭にグラウンドを行進し、整列をしてえらいさんの話を聞くのである。
夏の大会などは炎天下であり、30分近くもグラウンドで直立して話を聞くのは大変だろうと思うが、これも通過儀礼になっている。

IMG_0905


私はこの「開会式」は、ある種のメッセージ性があるのではないかと思っている。
それは「高校球児よ、君たちの肉体と精神を『甲子園』のために捧げよ」
というものだ。1世紀を超える伝統と、4000校、15万人もの球児の代表という使命感を今さらに自覚させようとしているのではないか。選手宣誓はまさに選手にその約束をさせるものだ。
そして、それは同時に
「甲子園は君たちのためではなく、郷土や学校、高校野球の伝統のためにある」ことを認識させることでもある。彼らは郷土や母校、高校野球の伝統に忠誠を誓わされるのだ。
試合のたびに「校歌」を歌わせるし、「閉会式」では、日本高野連の会長が厳かな「講評」をする。これらも「君たちは甲子園の主役ではない」ことを自覚させる。

この手の開会式は、甲子園だけでなく、地方大会でも行われる。49の大会ですべての球児たちは「高校野球はお前らのためにやるんじゃない」と刷り込まれるわけだ。

高校野球が「プレイヤーファースト」でないことは、この「開会式」に象徴されている。
選手は自分たちが野球を楽しむために甲子園に来ているわけではなく「甲子園で野球をさせていただく」ために来ているのだ。

「開会式」をいっそ廃止するか、今までとがらっとスタイルを変えることで、高校野球のイメージは大きく変わるのではないか。選手たちが思い思いにグラウンドに入り、観客席に手を振ってこたえてグラウンドを一周するだけ、とか、みんなでキャッチボールをするとか、そういうのでもいいのではないか。もちろん、えらいさんのお話は無しである。

甲子園は誰のものかを知らしめる意味でも、そういう改革も必要ではないかと思う。


私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中!