神戸市久元喜造市長のツイッター

さきほど英国から帰国して登庁し、教育委員会から受けた報告は、秋の運動会、体育大会の組体操で、立て続けに3件の骨折事故が発生、うち一件は全治4週間の重傷とのこと。何を対応していたのか?何度でも言います。教育委員会、そして校長先生をはじめ小中学校の先生方にはやめる勇気を持って下さい。

久元市長は危険な組体操の廃止を訴えていた。市長に教育委員会の方針を直接変更させる権限はないが、8月下旬には文書で中止するように要請していた。

81校の神戸市内の中学のうち、20校が校長の判断で中止を決定したが、残る学校では組体操が実施され、51人が負傷したという。

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組体操の危険性は、ここ数年全国で指摘されているが、なぜ中止できなかったのか?

「既に練習を始めていた学校もあり、子どもたちの混乱を招く」
「賛否両論の議論を収拾できない」

という公務員にありがちな「当事者ではなく傍観者」的な態度が、これを助長したのは間違いないが、根本には、
「組体操は一体感や達成感が得られる演目」という教育者の意識がある。

日本の学校教育は「みんなで同じことをする」「みんなで一つの目標に向かって取り組む」ことを重要視してきた。組織に異論を唱えず、従順で勤勉な人間を育てるのが学校の役割だと考えてきた。

高度経済成長は「個人よりも会社を大事にする」会社人間によって達成されたといえる。その点では日本の学校教育は成功したのだろうが、その体質を半世紀後もそのまま維持している。

「組体操」は、教員の命令一下、生徒が高いやぐらを組む。一人でも力が抜ければ、やぐらは崩れてしまう。まさに「力を合わせる」「組織に対する自分の責任を自覚する」ことを学ぶことができるという点では、理想的な競技なのだろう。
それによって負傷者が出ることは「名誉の戦死」であり、ドラマ性を掻き立てる小道具のようなものだった。甲子園で投手が肩やひじを損傷するのと同様、「そこまで一生懸命にやっている」「滅私奉公でやっている」ことを象徴する「良いスパイス」と思われていたのではないか。

今の日本で、「人と同じこと」しかできない人材は、下層にしかなれない。また「力を合わせる」にしても、教師に命じられて協力体制を作るような、低レベルの「力を合わせて」は必要ない。
ダイバーシティの時代にあっては、さまざまな「違い」を乗り越え、自分の意志で仲間を作り、目標達成する人の涵養が必要なのであって、教師に「こら、ぐらぐらするな」と言われて黙って耐えるような人「材」は必要ないのだ。

来年、どれだけの中学校で「組体操」を実施するのか、見ていこう。来年もうれしそうに「組体操」を実施する学校があったら「まだ昭和の教育をやっている」と長所売ればいいのだと思う。


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