今年6月だが、小林信也さんがこういう記事を書いている。
なぜ日本のスポーツ報道は「間違う」のか? 応援報道と忖度、自主規制。
小林さんは元高校球児で、
「高校野球が危ない」という著作で、ずいぶん早くから高校野球の危機に警鐘を鳴らしている。
非常に思索の奥行きが深い。
テレビのコメンテーターでよく見かける。そこでは穏やかな調子に終始しているが、実際には、日本のスポーツメディアの変質、あるいは劣化に対して、深刻な疑問を呈しているのだ。

(“応援報道”は)「みんなで応援をする」という特定の見方を提供し、スポーツイベントやその競技が「盛り上がっている」という空気を醸成するのに一役買う一方で、ひいきの引き倒し、盲目的な賛美と肯定が過ぎてしまう問題をはらんでいる。

メディア側は常に報道の中心となるスター選手や有名監督と親しい関係を維持するために、本来はすべき指摘や質問があっても忖度と自主規制で批判を避ける。勝利や優勝、記録が評価されるのは当然のことだが、単純な勝利者礼賛、勝利至上主義は、結果が出ている相手に対しておもねることにつながり、この弊害を助長する。


結局、今のスポーツメディアの問題は、これに尽きるのではないか。
阿部慎之助の引退会見で背番号「10」のTシャツを着こむことに何の疑問も感じない記者たちの姿を見れば、“応援報道”は日本メディアの骨の髄までしみ込んでいることがわかる。

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その弊害は大きい。NHKから民放まで、一般紙からスポーツ紙までもが「応援する」姿勢で報道するのが当たり前になってしまっているため、選手やチーム、運営側がおかしなことをやったとしても、今さら批判できない。

今夏のオールスターの「阪神、近本のサイクル安打」や、今年も猖獗を極めた「公式戦を使った“引退試合”」などは、球団、選手が「メディアが絶対に批判的な記事を書かないこと」を知っているからこそできたことだ。

憂うべきは、こうした「悪乗り」が、年々エスカレートしていることだ。スポーツの公平性、公正性よりも「受ける」ことが優先されるようになってきている。メディアが全く批判しないから、歯止めがかからなくなっているのだ。

メディアがおかしくなって健全な批判機能を失いつつあることで、日本のプロスポーツのモラルハザードが起き始めているのではないかと思う。


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