ここ数年、「公式戦での引退試合」をはじめとするプロ野球での過剰な演出や選手の逸脱行為についてブログで書くと、「そのことの何が悪いんだ?」「感動出来たら、面白かったらそれでいいじゃないか」というコメントをたくさんもらうようになった。「選手へのリスペクトがない」という非難もたくさん受けるようになった。



なぜなのかと思っていたが、小林信也さんのこの記事を読んで、これも合点がいった。

なぜ日本のスポーツ報道は「間違う」のか? 応援報道と忖度、自主規制。

一定の世代より若い人は「応援報道」以外のスポーツ報道を知らないのだ。
スポーツメディアは自分たちの国や地域のチームを応援するものだと思っているのだ。

これも補足しなければならないだろうが、スポーツ(だけではないが)報道は、読者、視聴者に代わってメディアが、スポーツの現場で起こったことを正確に伝えることが第一義である。
良いことも、悪いこともそのまま伝える。また、スポーツの公平性、公正性に照らして問題があると思えば、それを率直に批判する。
スポーツジャーナリズムは、伝達者、そして健全な批判者としてスポーツに寄り添っていたのだ。

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しかし、近年のメディアは目の前に起こったことをそのままつたえるのではなく、そこに読者が喜びそうな色をつけるようになった。日本選手がちょっと活躍すれば、世界が絶賛しているように報道する。その代わり不成績に終われば小さくしか報じない。
注意して情報を受け取らないと、日本人は世界中で失敗知らずであるかのように思ってしまう。

タイガー・ウッズの記者会見で、当時駆け出しの石川遼いついて「どう思うか」と聞くような記者がではじめたときに、今のメディアはおかしいのではないかと思った。

イチローが日米通産でピートローズの安打記録に迫ったときに、NHKの藤井康雄アナウンサーは、(日米通算)と但し書き付きで日米通産安打が表示されていることに触れ「この但し書きがなくなるのはいつのことでしょうか」といった。私はかなりショックだった。そんな日は来るはずがないのだが、そう言う方が日本のファンには受けがいいから、そういったのだろう。

メディアもだんだんマヒしている。何が正しいかではなく、どうすれば受けるかを第一に考えて報道するようになった。不都合な真実はできるだけ小さく報じるようになった。

そういう報道に慣れたファンは、スポーツメディアに、公平性よりも、より「受けるもの」「そうなってほしいもの」を伝えてくれることを期待するようになった。

そういう意味では、メディアの劣化が「自分たちが喜べるもの、感動できるものだけを見たい」という甘ったれたファンを醸成していると見ることもできよう。

ルーキー最多安打レース・2019

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