ここ10年、毎年沖縄に行っている。行けば都合のつく限り首里城に行った。一番好きな場所かもしれない。

行き方はいろいろある、ゆいレールの首里城からゆっくり山塊を登り歩くこともあれば、手前の宜保の駅で降りて、住宅街を縫って上ることもある。
全日空ホテルに泊まった時は、反対側からアプローチした。首里城がある、そこに向かっているというだけで、私は幸せな気分になった。

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沖縄に興味を持って、沖縄の歴史の本を読んだ。沖縄は日本であって日本ではない。常に大陸(中国)と日本の軋轢の中で、綱渡りのような政をしてきた。
沖縄は日本で言う中世の半ばまで、多くの豪族が割拠していたが、第一尚氏が統一し、首里城を中央政府とした。第二尚氏の時代も含めて、首里城が沖縄の中心だった。しかし内乱と、外国からの侵攻で何度も焼失したのだ。

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首里城を歩くと、まず石垣が内地とは全く異なることに気が付く。野面積みや穴太積みではなく、大きな切り石を寸分の隙間のなく組み合わせた石垣だ。これは大陸のものだろう。
そして朱塗りの建物も内地の雰囲気は全くない。今や中国にもない、明や清時代の中国の流れを汲んでいる。しかし同時に琉球ならではの特徴もある。

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私は書院・鎖之間の間でお茶をいただくのが大好きだったが、これも焼失した。

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戦前までは首里城を中心に、伝統的な建物はたくさんあった。エイサーをもたらした浄土宗の寺院、禅宗寺院もあった。しかし、米軍の侵攻ですべて灰燼に帰した。
首里城の足元には沖縄の禅刹の元締めだった円覚寺があった。那覇市内には崇元寺といういいお寺もあった。これらはすべてなくなり、首里城だけが再建された。

崇元寺あと

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沖縄本島で戦前からの寺院は金武町の観音寺だけ。県内最古の寺院は石垣市の桃林寺だ。

やすりで削ったように街の風景が変わってしまった戦後の沖縄にあって、再建された首里城は「昔の沖縄」の1分の1のジオラマのようではあった。しかしこのジオラマがなければ、沖縄はアイデンティティがはっきりしない様々な文化が混交したアジア小国になってしまう。

10月1日、私は那覇にいて時間が許せばモノレールで首里城に行くつもりだった。この日からモノレールが延伸し、首里城の先まで行くことができるのだ。しかし飛行機の都合でそれはかなわなかった。
その前は、5月に那覇に行って、このときは首里城に上ったが、これが今生の別れになってしまった。私が生きている間に再建されることはないだろう。

戦前の首里城

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首里城の城壁から街を見下ろすと、空き地で子供たちが野球をするのがよく見えた。内地とは違って、ここでは野球少年がまだいるのだ(大野倫さんによれば、競技人口は激減しているそうだが)。
私は首里城に上がると必ず野球をしている子供を探した。

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首里城がなくなっても、子どもたちはあの石垣の下で野球をしてほしい。そして彼らが大人になるまでに、首里城が再びあの雄姿を取り戻してほしいと思う。


1964年金田正一、全登板成績【スワローズ最後の年、最後の20勝到達】

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