10月に織田信成の「関大騒動」については、改革派の織田と守旧派の濱田美栄コーチの争いという図式だと書いたが、今回の提訴の内容を見ると、そういう話でもないような気がしてきた。
関大スケート部というのは、伝統的に何人かの指導者が自分の教え子を指導する群雄割拠型の組織だったのだ。今は濱田美栄コーチの一派、長光歌子コーチを継承した本田武史コーチの一派、そして織田信成の母の織田憲子コーチの一派があった。この「派閥」という形式がいいのかどうかはわからないが、織田信成は母の派閥を継承する形で関大に戻ったわけだ。

しかし関大は、織田信成に「監督」という肩書を与えた。他のコーチと並列の「コーチ」であれば、今回のような軋轢はなかったのではないか。
関大側は織田の知名度を利用したかったのかもしれない。また、最大勢力の濱田美栄コーチをけん制したいという思惑もあったのかもしれない。
ただ、タレント業が忙しい織田信成に、本当の意味での「監督業」は端から難しかったはずだ。

しかし織田信成は「監督」という肩書を真に受けて、スケート部全体を掌握しようとした。
濱田コーチとの衝突は、この時点で必然的だったといえよう。
濱田コーチにしてみれば、新監督は昔の同僚の息子である。はるかに年若く、指導者としての経験もない若造の言うことを聞くのは片腹痛いと思っていたことだろう。

思い出したのは「三原総監督」だ。1949年半ばから巨人の采配を執った三原脩は、優勝を果たしたが、1950年に水原茂が復帰すると、総監督に祭り上げられた(このあたりの事情、複雑なので単純化した)。しかし実権が水原茂に移ったと悟った三原はこのオフには巨人を去ったのだ。

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指導者が何枚もいる組織は、もめるのである。
今回は、実質的に監督だった濱田コーチの上に、お飾りとはいえ織田監督がのっかったことで騒動になったのだ。

織田信成の記者会見を聞くと、監督という立場でありながら濱田コーチに「いうことを聞いてもらえない」「無視された」などと泣き言を言っている。貫目がないのは仕方がないが、指導者としての自覚や責任感が足りなかったといわれても仕方がないだろう。

織田信成自身は新しい大学スポーツの考え方を入れて、練習時間を短縮したり、授業に出席するように促したり、進歩的な考えを持っていたようだ。濱田コーチは典型的な「スパルタ」だから、これを改めることができれば、大きな進歩だったとは思う。
しかし織田信成は、それだけの役者ではなかったのではないか。「泣きの織田」はキャラとしてはいいが、ほんまもんの泣き虫では指導者にはなれない。

一番問題があるのは、関西大学だ。「監督にする」と言って織田を呼んでおきながらろくに調整もせず、監督の後ろ盾にもならず、濱田コーチを説得することもせず、ほったらかしにしたのだ。無責任極まりない。
挙句に「今回のことを公にするなら織田も濱田もクビ」と言ったという。大学幹部には、脳味噌の代わりに八丁味噌でも入っているのではないか、というくらい旧弊で保守的だ。

下手をすると関西大学は、織田に加え濱田コーチまで失う可能性があるだろう。まともな組織として、調整機能を発揮すべきだ。


1964年金田正一、全登板成績【スワローズ最後の年、最後の20勝到達】

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