「高校野球で燃え尽きる」と言う言葉は、今後の野球界が論破し、超克すべき言葉だと思う。よく考えてみると非常におかしな言葉なのだ。

「燃え尽きる」とは、具体的には投手が重要な試合で「もう2度と投げない」覚悟で投げることであり、故障の危険性を顧みず「怪我をしてもいいから最後まで投げる」ことを指す。

試合は夏の甲子園の全国大会や地方大会での試合に限定される。まだその後の試合が予定される選抜や秋季、春季の登板では「燃え尽きる」ことはない。
また「燃え尽きる」は通常「完投」することを指すと思われる。先発して他の投手にマウンドを譲っては「燃え尽きる」ことはできないし、リリーフ登板でも難しそうだ。

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つまり「高校野球で燃え尽きる」可能性がある選手は、各高校の「エース」だということだ。

なぜ「燃え尽きたい」のか?一般的に言われるのは、
・高校時代で野球をやめるから
・大学や社会人では野球以外の道で頑張りたいから
・最後まで自分一人でやり切りたいから

である。だから「怪我をしても」「もう投げられなくなってもかまわない」という覚悟を持つということだ。

実は先日、そういう意見の高校生がいたので
「じゃ、君は大学では野球はしないの?」と聞いた。すると
「いえ、続けたいと思います」という。
「でも、燃え尽きたら大学で投げられないじゃない?」と聞くと彼は言いよどんだ。

「燃え尽きる」理由としてよく「もうこれ以上投げないから」と言われるが、地方大会の後ろの方や、甲子園に出るような投手で、本当に野球をやめてしまう投手はそんなに多くない。
なのに一般論として「高校で野球をやめるから」と言う言葉が「過酷な登板」の理由として使われる。

本当に「燃え尽きる」ことを理由に、球数無制限で投げるというのなら、その投手はその後、大学のセレクションに出たり「プロ志望届」を出したりしないはずだが、どうなのか?

逆に言えば、「燃え尽きる」ことを選択しない、プロ、大学での野球を志望している投手には「球数制限」をすべきだということになるが、このあたりはどうなのか?

この言葉は本人以上に第三者が言うことが多いが、具体的な状況を想定せず一般論、そして感情論で
「高校で燃え尽きさせてやりたい」という形で使われることが多い。
実際は「燃え尽きては困る」投手も、その文脈で語られるのだ。

件の高校生の頭にあるのは
「たくさんの球数を投げても、後でケアをすれば大丈夫なんじゃないか」
という希望、もしくは願望を抱いているのだと思う。
人間だれしも「自分だけは大丈夫」と思いたいものだ。

「高校野球で燃え尽きる」は、この程度のいい加減な言葉だ。「意見」と言うより「情緒」に近いと思う。


1985年福間納、全登板成績【やられたらやり返せ、リーグ優勝&日本一に貢献】

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