ちょうど東風平球場で編集者からメールを受けた。目の前を通った田尾安志さんが「え?亡くなったの?」と言っていたので早速コメントをとった。こちらである。



私は野村克也が好きで、それがきっかけで野球に興味を持ち始めたのだ。1968年のことだった。小学校高学年から、大阪球場に行くようになり、野村の姿を見るようになった。確かそのころ学研の「学習」に野村の伝記が載ったのを覚えている。

背中が丸くて、なで肩で、のっそりした姿は「ムース」というあだ名がぴったりだった。打席でもやる気がなさそうだったが、バットを一閃すれば、打球はスタンドに飛び込んだ。スイングはとにかく速かった。前にも書いたが、ちょっと中村剛也に似ている印象だった。

キャリアSTATS

Nomura


1954年から1980年まで、27シーズン、実働26年だった。私が見たのは1971年ころからの10年。
三冠王のころは知らない。

現役時代の野村は不愛想で、根暗な感じがした。またそれが良かったのだ。人が来ないパ・リーグの球場で、ぼそぼそとつぶやきながら野球をしている。パラパラの客席からヤジが聞こえる。
私が後楽園の巨人戦を始めてみたのは、1980年代になってからだが、南海の試合とは別の世界のような気がした。

必ずしも私は野村がやることが全部好きだったわけではない。特に監督として、さっぱり打てなくなった捕手野村を使い続けたことには幻滅した。1974年はがっかりしたものだ。
「監督、お前のチームの弱点教えたろかー!、キャッチャーや!」はこの年、大阪球場で飛んだヤジだった。
このころ、私は明星高校にいたが、翌1975年、1963年の明星の甲子園優勝時の捕手、和田徹が南海にやってきた。へたり気味の野村を押しのけてレギュラーになってほしいと思った。オールスターでも和田の名前をはがきに書いたものだ。ところがこの年、40歳の野村は奇跡的に復活するのだ。これも憎らしく思った。

しかし1977年9月25日、野村克也は南海を追われる。サッチーが伏魔殿から現れて野村を篭絡したのだ。このときは、人生の愉しみの半分が奪われたような気がした。
そこから引退までの3シーズンは、ひたすら切なかった。根暗なままで年を重ねる野村に、救いがないような気がした。

端的に言えば、引退後「名将」の名をほしいままにする野村克也は、子供のころ、どきどきして見た地味な選手のイメージからどんどん遠ざかっていった。「人生の師匠」みたいな野村にはあまり興味がなかった。

実は鶴岡一人の伝記を書く準備をしていて、複数のルートで野村にインタビューができそうな感じだったのだが、それを活かすことなく今日を迎えてしまった。それが唯一の心残りだ。


2019年E.エスコバー、全登板成績

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