野球に関係ないように思うかもしれないがそうではないのだ。
落語だけでなく講談にも江戸・東京と上方がある。上方講談の今の実質的な家元が四代目旭堂南陵だったが、今日亡くなったとのことだ。

私が上方落語協会に入ったころは、まだ先代が生きていて、四代目は小南陵だった。先代は不思議な人で、襲名披露でとりとめのない口上をやって、芸人の腹を抱えさせるような茫洋とした人だったが、惣領弟子の小南陵は、槍のように鋭い人で、師弟関係は良くなかった。先代からよく小南陵の悪口を言う電話を受けた。
私が上方落語協会に入ったのは1983年のことだが、講釈師も協会に所属していたので、すぐにあいさつした。当時の会長の三代目春団治が「この子、野球やるらしいから」という紹介をして、上方落語協会の「モッチャリーズ」というチームに入った。オーナーは副会長だった三代目桂小文枝(のちの五代目桂文枝)。この師匠のもっちゃりした口調からそういうチーム名になった。

ある朝呼ばれて、試合に出ることになった。その日のスコアブックが私の手元にある。私は手塚になっている。本当は手束だが、誤記されている。

Nanryou


2番で捕手だったと思う、3番が旭堂南学(今の旭堂南左衛門)、4番が笑福亭仁福、5番が桂春秋(今の桂梅團治)、6番が桂枝女太、7番が小南陵、8番が桂米八、9番が桂三太(今の枝三郎)。私は貧打がばれてすぐに下位打者になった。ただ2年間、ほぼ皆勤だった。

谷町と日本橋の間の瓦屋町公園の球場は今もあるが、狭くて本塁打がよく出た。

こうした顔ぶれで、多い時は年に100試合くらいしたのだ。月曜は散髪屋チーム、火曜はタクシー運転手みたいな感じで。瓦屋町のほか、桜ノ宮や浦江(朝日放送の横)などで朝9時からやって、昼に終わると近くの「養老の滝」などに行って昼間からビールを飲む。私はそこから事務所に行ってソファで一眠りして、夕方に寄席に行っていたのだ。

あれから37年がたったが、「モッチャリーズ」の選手たちは見事に誰も売れなかった。常連で売れたのは宮川大助(大輔ではなくて)くらいだろうか。
ときたま明石家さんまや島田紳助が「野球をやりたい」というとみんなで行って野球をした。当然、さんま、紳助はエースで4番。終わるとお小遣いをくれたので、みんなで飲みに行った。仁福さんは先輩にあたるが「さんま、いつもすまんなあ」と言っていた。この人は500試合くらい出場して新聞に載ったことがある。元気だろうか?

小南陵の南陵さんは私のことを「てっちゃん」といってかわいがってくれた。旦那衆にごちそうになるときに、一緒に連れて行ってくれたこともあった。

本人は桂三枝(六代目文枝)に強烈なライバル心があり、自分の才能に自信がある人だった。講談だけでなく芸能史研究でも功績を残した。
上方講談界を支えてきた偉い人だったが、このたび神田伯山を襲名した松之丞が人気となる中で、それほど注目されることなく世を去ることになったのは、惜しいことである。まだ70歳の若さだった。


2007~2019の打者 vs 2020年の打者/10試合終了時打率比較・セ・リーグ

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