新型コロナ禍では、専門家の意見は千々に乱れている感がある。

今日も陽性者の数がうなぎのぼりだが、この状況に対して「医療崩壊が近い」と危機感をあらわにする専門家がいる一方で「4月当時とは医療体制が違うので恐れることはない」という専門家もいる。
またPCR検査についても「もっとやるべき」という人もいれば「やみくもに数を増やすのは意味がない」という人もいる。

同じ対象に対して、同じ分野の専門家が論じてかくも正反対の意見になるのはなぜなのか?

一つはポジショントークということがある。政府御用達の専門家は、政府の意向に沿って「まだ大丈夫」という論調になるし、反政府の専門家は「もうやばい」という。

しかし両者の話を子細に調べてみると、危機感をあらわにする専門家も、大丈夫という専門家も「断言」はしていない。異なる解釈もできるようなことを言っている。「〇〇となる恐れも否定できない」「〇〇となる可能性がある」的な言い方だ。
断言しないのは、責任追及をまぬかれるためでもあろうが、同時に学問的な「厳密さ」からくる部分もある。100%の断言ではなく「こういう傾向がある」「こういう評価ができる」というのが、学者、研究者の口吻だ。

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学術論文というのは、素人には敷居の高いものだ。学問的な厳密さを保つために、正確な文章で書こうとするし、他の専門家から突っ込まれないようにするため捕捉や補遺も多い。さらに脚注、後注等で補強もする。
専門家は論文を読む前からポイントを把握して、その評価を中心に読むからすぐに理解するが、素人があたかも物語でも読むように読んでもなかなか理解できない。

とはいえ、一般的な記事も書いているような著者が論文を書くと、素晴らしくわかりやすかったりする。小林至さんなどその典型だ。しかし大部分の研究者が「理解しやすい文体」を心がけていないという一面は確かにある。
だから、世の中にはその仲介者となる「テクニカルライター」がいるのだ。

私は野球ひじについて専門家に話を聞くが、専門家が言ったことをテープにとってそのまま書いても「このまま文章として出すのはやめてほしい」とよく言われた。話としてはそうだが、その用語一つ一つに注釈や補遺がなければ、トータルとして「間違っている可能性のあることを言ったことになる」専門家は専門家によるそうした指摘を恐れるのだ。

あるメディアの編集者などは「広尾さん、お医者さんに話を聞くのはやめてほしい。何度修正原稿を出してもうんと言わないし、結果的にぐちゃぐちゃになるから」などという。困ったものだ。

しかし、新型コロナ禍が深刻な今、日本に必要なのは感染症の専門家の「自信に満ちた断言」だろう。セーフなのか、アウトなのか、いずれにせよ「今はこういう状態だ」とはっきり言って、そのうえで「こうすべきだ」と方針を指し示す。

政治家が今、責任を取らされるのを恐れて、ほとんど指針を示さない中、必要なのは専門家の、勇気ある「断言」だと思う。
政治家に逃げられ、専門家に捨てられては、日本人は途方に暮れてしまう。


2007~2019の打者 vs 2020年の打者/10試合終了時打率比較・セ・リーグ

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