昨日のNHK「ファミリーヒストリー」は江川卓。今年65歳になった江川の半生をどのように描くのか、注目だった。

私はキャンプ地で江川卓を何度か見かけたことがある。
日本テレビのスタッフとともにブルペンなどでたたずんでいたが、他のプロ野球OBとは違って選手やコーチが歩み寄ることはなかった。
1987年の引退だから当時を知る人が少ないのは仕方がないが、江川は野球中継の解説をしても、試合前にグラウンドまで下りてくることはない。あえて現場の選手や指導者との交流を避けているようだ。

そうした心性の根底に一連の「江川騒動」があったことは想像に難くない。

江川は幼時からあまりにも傑出していた。そして父親の上昇志向は強烈だった。それによって、江川のキャリアはスムースとはいいがたい経路をたどるようになるのだ。

少年時代に静岡の山奥で川に向かって石投げをして100mの川を超えて大人を驚かせ、中学に入ると圧倒的な能力を示すようになる。

栃木県小山に移って作新学院に入ると圧倒的な投手として全国に知られる。

甲子園での活躍は今も鮮明な記憶になっているが、その時から「アンチ江川」がたくさんいた。十代にして老成した性格で、冷静沈着。いわゆる「高校生らしくない」キャラで、それが「高校野球は純情であるべし」というファンの反感を買ったのだ。
「天狗になっている」「感謝が足りない」などと言われた。

3年の夏の大会、1973年8月16日の銚子商戦は、雨天の中行われた。江川は延長戦で雨に滑るボールで押し出し、サヨナラ負けを喫した。私は塾へ行く道すがら、ラジオで中継を聞いていたが、がっかりしたような、ほっとしたような不思議な感慨にとらわれたのを覚えている。

江川は慶応義塾大学を志望し、早慶戦で投げることを希望していた。学歴がなくて苦労した父の強い意向があったとされる。
慶應大学野球部としても入学させる意向があったが、一部の教員が強く反対した。
池井優先生は、当時若手の教員だったが
「こりゃ絶対入れるべきだ。優勝できると言ったんだが、頭の固い連中がいてね」
と話しておられた。

慶應の合格発表には多くのメディアが取り巻いた。おびただしいカメラに囲まれて、江川は自分が不合格だったことを知った。実に残酷なことだった。

江川卓の不幸は、このころからすでに始まっていたのだ。

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中日・ナゴヤ球場・ナゴヤドーム・シーズン最多本塁打打者/1950~1988、2007~2019

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