東京オリンピックはできるのか、できないのか、いまだに全く先が見えないが、一連のやり取りを見ているうちに、私などはだんだん心が冷めていってしまった。

昨年のうちに五輪の野球のチケットに応募し、1枚当選していた。5月にはチケットの発券があるはずだった。五輪の取材のパス発行は極めて厳しいといわれているから、フリーランスでは無理かもしれない。取材での観戦は半ばあきらめていたのだ。

しかし今年になって新型コロナで五輪の開催があやふやになっていく。中止に至る一連の動きを見ていて、じわじわと疑問がわいてきたのは「本当に選手、観戦者の健康、安全を最優先しているのか?」ということだ。

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多くの選手はオリンピックに命を懸けている。欧米などでは「感染のリスクがあるなら五輪には出ない」と公言するアスリートもいるが、日本の選手の多くは「オリンピックに出られたら死んでもいい」と本気で思っている。このあたり「甲子園で燃え尽きれば本望」と同じく「競技」そのものよりも「大会の権威」をありがたがる日本独特のメンタルだ。
本来であればJOCや各競技団体は、アスリートたちの希望には理解を示しながらも、最終的には「選手の健康、安全」を第一に考えた決断をすべきだ。
しかし日本のスポーツ界は「何が何でもやりたい、やらせてやりたい」一辺倒だ。
オリンピックをやらなければ、選手だけでない団体や指導者ももうからないことが背景にある。
日本では、マイナースポーツは、オリンピックに出なければ、遊び人同然の扱いを受ける。ステイタスを高めるためにも五輪は絶対に必要なのだろうが、これはスポーツの本分とはかけ離れている。

さらに主催者側は「どんなことをしてもオリンピックをやる」とまなじりを上げたままだ。巨額の予算でオリンピック仕様に都市を改造してしまったし、電通やゼネコン、メディア、各分野の大企業などが五輪の利権に群がって巨大なコングロマリットのようなものを作っている。巨額の投資をしてしまっているのだ。だから、もう後には引けない。
IOCのバッハ会長もその利権に乗っている口で、「開催できそうだ」と言い始めている。
この「やれる」「やれる」の大合唱を聞くうちに、私の五輪熱はすーっと冷めてしまった。もともと「オリンピック至上主義」には反対だったが、東京オリンピックの強行は害悪でしかないと思うようになった。

五輪の栄光とも利権とも全く関係のない普通の人々にとって、オリンピックは「大きな運動会」であろう。日頃鍛錬してきた選手たちが一生懸命頑張るさまをみて手をたたいて応援する催しだ。もちろん自分の国が活躍すればうれしいが、それだけでなく、様々な競技で多くの国のアスリートが技量を競うのを見るのが楽しいはずだ。
そうであるならば、心おきなく観戦したい。様々なリスクや心配事を抱え込みながら我慢して見るのはうれしくない。

今、プロ野球は入場者を制限し、観戦スタイルを制限して試合を続けている。本来は、こういう状況では行うべきではないが、長期間にわたって試合をしなければ、プロ野球などジャンルそのものが立ち行かなくなる。スポーツであるとともに興行としての側面があるし、ジャンルそのものを維持する必要があるために、苦肉の策で不完全な状態で試合をしているのだ。

しかしオリンピックは常設の大会ではないし、きれいごとを言えば興行でもない。運動会である。雨が降ったり大嵐になって開催不能になれば、中止や順延をするのだ。ましてや未曽有のパンデミックである。無理してやる必要は全くない。

今の「できると思う」「もう大丈夫だ」「絶対にやる」と語るバッハや森喜朗を見ていると、新型コロナに感染しながら「20年前より気持ちがいい」とうそぶくドナルド・トランプと重なって見える。

トランプが国民のことなど何一つ考えていないのと同様に、「絶対やる」という五輪関係者は自分たちのことだけ考えているのだろう。


中日・ナゴヤ球場・ナゴヤドーム・シーズン最多本塁打打者/1950~1988、2007~2019

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