阪神電鉄と阪急電車が同じ資本になったのは、ある意味で関西文化圏の溶解と言える一大事だった。

阪神電鉄は東洋のマンチェスターと言われた大阪と、港湾都市神戸をつなぐ日本最初のインターアーバンであり、沿線には工場や労働者の住宅が立ち並んでいた。
1924年に甲子園ができて、野球が阪神電鉄のアイデンティティとなったが、いずれにしても阪神電鉄はワーカーのための電鉄だった。

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阪急電車は、阪神の北側を走っている。実質的な創業者の小林一三は、芦屋や西宮に住宅地を開発し、そこと大阪梅田をつなぐ通勤電車を通したのだ。ブルーカラーの阪神に対し、阪急はホワイトカラーの電車だった。そして芦屋、西宮と反対の宝塚に遊園地を作り、休日は反対方向に人が流れるように設計した。
船場の旦那衆が、芦屋や西宮に本宅を構えるとともに、阪急沿線は「山の手のお金持ち路線」になった。

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小林の考えはのちに堤康次郎の西武鉄道がそっくり模倣するのだが、それはともかく、阪神と阪急は全くカラーの違う鉄道だったのだ。しかしライバル意識は猛烈にあった。

1936年に職業野球ができて阪神が参入することを知ると、小林一三は出張先のアメリカから職業野球への参入と西宮球場の建設を命じた。阪急も1936年、職業野球草創期に参入した。

以後、1988年に阪急がオリックスに身売りするまで、阪急と阪神は球団としてもライバル心を持っていた。2リーグ分立の1950年以降は公式戦での対戦はなくなったが、オープン戦では「阪神ー阪急」戦は伝統のカードとして続けられてきた。

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その阪神と阪急が、2006年、阪急のTOBによる阪神株の買い付けによって統合された。阪急と阪神という「異文化」が統合されたのだ。

関西人は居心地の悪さを感じていると思う。エリートの阪急が、労働者階級の阪神の首根っこを押さえんでいるような印象がある。

新型コロナで陽性になった責任を問われて阪神球団の社長の首が飛んだのも、選手に制裁金を科したのも、阪急方の経営トップの指図だったという。
また福留、能見に引導を渡したのもホールディングスの意向だったという。

そういうことを聞くと、阪神側は気分が悪いかもしれないが、私は、阪急も阪神も、球団経営の在り方としてはもう古いと思う。
電鉄の経営をする感覚で、責任を取らせたり、ベテランの首を斬るのではなく、スポーツマネジメントの考え方で球団を仕切るべきだろう。例えばDeNAや日本ハムのように。

阪神、阪急は電鉄出身ではないスポーツマネジメントのエキスパートに経営を任せるときが来ていると思う。


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