これは、わざわざ中国からコメントを寄せてくださったRyuhei Matsuraさんへの返事として書いている。このサイトを昔から読んでくださっている方はご存じだと思うが、私は20歳で演芸台本の作家を志し、大阪シナリオ学校というところに入った。

漫才ブームの最中であり、中田明成、大池晶、足立克己など有名な台本作家の講義を受けた。「笑の会」の藤本義一さんも健在で、当時のトップの漫才師たちの楽屋裏も見せてもらった。
大学卒業後、上方落語協会に入り、落語家のマネージャーをした。当時、桂米朝は入門希望者に「芸人になるというのは、〇〇組に入るのと同じやねんで」と諭していたものだ。

私たちの世代は永六輔の「芸人その世界」シリーズを教養の一環として読んでいたが、芸人はかつては「非人」と同じ被差別民であり「まともな人間」とは思われてこなかった。芸人は、その差別を逆手にとって、したたかに生きてきた。倫理に従わず、体制に拠らず、自由に、好き勝手に生きてきた。それが一般人とは異なる「芸人の矜持」だった。「いい加減」で「不誠実」で「不真面目な」人間のクズとは、芸人という仕事のアイデンティティそのものを表した言葉だ。

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「それは昔の話だろう、今の芸人は一般人と同じステイタスだ」というかもしれないが、今も芸人の身分は不安定であり、新型コロナが来ればたちどころに無収入になる。また一般社会では、芸人は警戒される存在である。
言い方を変えれば、そんな不安定で不確かな存在だから、アイディアも浮かぶし、開き直った芸もできる。良くも悪くも「完全なる自己責任」こそが、芸人という生き物の最大の特色なのだ。
「研鑽」「鍛錬」を積もうが、だらだらと遊び惚けようが、そのこと自体で評価されるのではなく、ひたすら生き残ることができるか、芸人であり続けられるか、が芸人の価値だったはずだ。

M-1 R-1について、私が危惧するのは、こうした「芸人の世界」が、マーケティング的に取り込まれるのではないか、という点だ。マーケティングとは「売るためのすべての努力」だ。わたしはそっちの専門家でもあるからよくわかるが、どんな理由であれ多くの支持を得るもの、売り上げが高いものが「勝ち」であり、すべてである。
「芸人」がマーケティングに取り込まれるとは、「ごく一部にしか受けない芸人」「売れない芸人」が、「大多数に受け入れられる芸人」の下風に立つことであり、芸人といういい加減な世界に秩序をもたらずことでもある。

これまでにない多くの人たちがM-1 R-1を見て芸人を評価するのは良いことではあるが、芸人の価値はM-1 R-1だけで決まるわけではない。もっと多様な価値観が並立的に存在してほしいと思う。

また芸人の目標が「M-1 R-1」だけになってしまうのも問題だと思う。そのために一生懸命台本を書き、努力するのは結構だが、それだけが芸人の目的になるのは問題だ。
芸人の矜持、つまり体制や権力から自由であることを失ってはならないと思う。


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