日本のプロアスリートに「プロ意識」があるのかどうか、私はかなり疑問に思っている。

プロ野球選手の契約相手は、第一義的には「球団」である。個人事業主である選手は、球団と個々に年俸契約をすることでステイタスが確立される。第二義的に「ファン」である。球団の顧客であるファンの意向に沿って高いパフォーマンスを見せていくことになる。
例えるならば、選手はメーカーのようなものだ。彼らが作る商品を「球団」という「店舗」に納品し、店舗がファンであるコンシューマーに販売する。

選手は球団との間で契約を結ぶが、球団は選手に対し、契約期間全般で高いパフォーマンスを見せることを期待する。プロ野球は年間100数十試合行われるが、選手はシーズン通して高いレベルを維持してほしい。さらには選手の契約は1年で終わるものではなく、数年、十数年にわたるものだから、球団としてはその期間、高いレベルを維持してほしいと希望する。

選手は第一義的な契約相手である球団のこの意向に従って、自らのパフォーマンスの向上を目指すとともに、その力をできるだけ長く維持するために、トレーニングをしたり、メンテナンスをしたりするなど努力をしなければならない。

この試合で、このシーズンで「一世一代の活躍をしたい」「歴史に残るような活躍をしたい」と選手が思うことは、球団の利益に沿う形である限りは認められる。しかし、その大活躍によって、以後のプレーの質が落ちたり、故障やけがでプレーできなくなる恐れがある場合は、選手の希望は認められない。
たとえファンが「この試合で燃え尽きてくれ」「今シーズンをキャリアハイにしてくれ」と希望したとしても、第一義的な球団の意向と反する場合は、それは認められない。
MLBの選手は、おおむねこの原則に従ってプレーしているが、NPBではそうでないケースが散見される。

それはおそらく「甲子園」「高校野球」のイメージが日本の野球選手の意識化に色濃くあるからだ。高校野球では「今後野球ができなくなってもかまわない」「この試合で完全燃焼する」という刹那的な美学が今も根強く生きている。ファンの中にもそれを礼賛する人がいる。

その意識がプロになっても根強く残っているのだと思う。しかし選手が消耗品であることを考えれば、後先を考えずに「この試合だけ」「このシーズンだけ」と頑張る選手は、プロとしては失格だ。
大野雄大が2020年に完全燃焼を望んだとしても、翌年以降のパフォーマンスの低下を考えれば、球団なり指導者なりは「自重」を求めるべきだった。

ファンは一時的に喜ぶかもしれないが、翌年になって成績が落ちればブーイングするものなのだ。
ファンは移り気で、無責任なものである。「ファンのために」は真実ではあろうが、それは「何でもファンの言いなりになる」こととは別だ。

プロ野球を評するときはこうした仕組みを理解しなければならないだろう。

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