Bseball ReferenceのトップページにあるIn Memoriamは折に触れ見ているが、昨年10月2日に88歳で死去していた。巨人V9時代のヤクルトの頼りになる外国人打者だった。

パナマ出身、1953年にカリフォルニア州のマイナーチーム、ポートビルに入団。
翌年、オリオールズとマイナー契約。
キャリアSTATS

D Roberts


左投げ左打ち、外野または一塁を守った。1957年にミルウォーキー・ブレーブスに移籍、以後、カンザスシティ・アスレチックス、シカゴ・カブス、ヒューストン・コルト45’sと移籍し、10年目にしてMLBに昇格する。1964年はヒューストンで最多の61試合に出場するもレギュラーに定着できず、66年のパイレーツを経て1967年にサンケイアトムズにやってきた。34歳とかなりの高齢。

当時のヤクルトには衰えた豊田泰光と前年加入したルー・ジャクソンしかいなかったが、ここにロバーツが入ったことで打線は大幅にパワーアップしたが、投手力が伴わず、優勝争いには加わらなかった。ルー・ジャクソンは1969年のシーズン中に急死している。
ロバーツはスイングが速く、飛距離のある本塁打を打った。

1968年には王貞治の49本に次ぐ40本塁打、69年には44本に次ぐ37本塁打、「優秀な外人選手」の代表選手ではあった。

当時、放映中の「巨人の星」を見て、アームストロング・オズマはデーブ・ロバーツがモデルではないかと思ったものだ。


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