高校野球は高度経済成長期までの日本社会とは、素晴らしくマッチしたスポーツだった。
指導者の厳しい練習に耐えてレギュラーになり、甲子園に出場すれば、高校生にして全国の称賛を集めることができるし、プロ野球や社会人など野球の道が拓ける。そうならなくとも「甲子園に出た元野球選手」は、根性がある立派な人材として企業などで歓迎された。

しかし高度経済成長期が終わり、成熟社会になり、世の中が複雑になってくるとともに「甲子園に出場すること」そしてそれに象徴される高校野球が「全くの善」とはみなされなくなってきた。

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一つには、典型的な体育会系の「体質」が、社会の変化に合わなくなった。指導者や先輩には絶対服従、指示、命令通り動くだけの野球選手は「自分で考え、動く」ことが求められる現代社会では「優秀な人材」とはみなされなくなった。今でもブラック企業では「目標達成のために死ぬまで働く」ような体育会系は人材とされるが、まともな企業では「はい」と声だけが大きくて、自分一人では何をしていいかわからないような人間は求められなくなった。
「どんな苦しいことにでも耐えて、目標を達成しようとする高校野球は人材を作ります。根性ができるんです」と高校野球の名将は言うが、現代は根性だけで世渡りができるほど甘くはない。

もう一つは極端な「精神主義」の裏返しとしての「反知性主義」だ。何事も「精神力」で乗り切るという旧日本軍直伝のやり方は、情報化が進んだ現在社会では、完全に時代遅れになっている。
「球数制限」の話が大きくなっても、旧来の指導者たちは「肘が壊れるメカニズム」についてろくに学ぼうとはせずに「球数制限をしているアメリカで、あんなにトミー・ジョン手術をしているのはおかしい」とか「理想的なフォームで投げれば壊れない」など的外れで低次元の反論をした。スポーツ科学を学ぶ気もなく、また学ぶだけの知性もない指導者たちが、野球の進化を妨げている。

そして「甲子園」は「私学の商売」に利用されている。少子化が進む中、生徒数確保に躍起となる私学は「甲子園」と「東京大学」の2枚看板で売っている。野球と勉強の「秀才」を特待生などで入学させ、甲子園、東大合格の実績を上げさせ、それによってその他大勢の生徒を集めている。身も蓋もない「功利主義」が「教育」の名のもとに行われているのだ。

結局のところ、無茶苦茶やっても、いろいろ非難されても「甲子園に出さえすれば勝ち」という一点突破の図式が問題なのだ。そのためには何をやっても許される。
本来、部活の延長にあるはずの「甲子園」が極めて高いブランド力を身にまとったために、さまざまな弊害が生じているのだ。
野球人口が減少している今「甲子園」は「野球の広告塔」としても機能しなくなってきていると言ってよいだろう。


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