昨日のサンデーモーニングでは、関口宏がグレーの背広を着て暗色のネクタイをつけていた。背景には白い花が飾られ、祭壇のような雰囲気だった。

また、SNSでも1日喪に服したという人もいた。
個人的事情でそうする人については、何も言う必要はない。生前の安倍晋三に世話になったとか、熱狂的な支援者だったとか、個人的に好きだったとか。
しかし、そうではなく「一国のもとの元首が死んだのだから」と言う理由で、服喪しているのだとすれば、気は確かか?と聞きたい。

安倍晋三はイチローや大谷翔平ではない、山中伸弥でもない。こういう人たちは、自らの才能と超人的な努力、研鑽で世界に認められる業績を上げた。日本人が彼らを誇りに思うのは当然だし、彼らに不幸があればともに悲しむのは、当然だろう。「惻隠の情」というべきものだ。

しかし安倍晋三など政治家は、もともとが「一般国民、有権者の僕」である。一般国民が「選んでやって」、税金を使って「仕事をさせてやっている」わけだ。国民は、働きが悪かったり、おかしな仕事をすれば「いつでも首にできる」権限を有している。その手続きたる選挙は、いささか煩わしいが、政治家は、国民の使用人だ。階級でいえば、国民の下に来る。
国民主権の民主主義国家では、政治家が「公僕」なのは当たり前のことで、説明するまでもない。

そのうちの一人、大物政治家が凶弾に倒れたのは、確かに痛ましい事件ではあったが、これに対する国民感情は、様々であってよいはずだ。
生前の功績を認めて、その人柄にも好感を抱いていたような人は「哀悼の意」を表してもいいが、その政策に疑問を感じ、国民のために働いたとは認めがたいと思っている人は、突き放した感情を持ってもよい。
すくなくとも、メディアや世論一般は、こと政治家の生き死にに関しては「ニュートラル」であってしかるべきだと思う。

しかし今の日本には「考え方の違いこそあれ、一国の総理まで勤めた政治家が不慮の死に見舞われたのだから、ここは矛を収めて日本国全体で喪に服すべきだ」みたいな空気が漂っている。「一時の情」に「理性」が流されているのだ。これこそ民主主義国家日本の「劣化」を象徴している。

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記者クラブ系のメディアが「えらい政治家に、鋭い質問をするのは失礼だ」と思うような国である。国民が政治家を「ありがたい」と伏し拝むのは仕方がないかもしれないが、情けないことだ。

巨人は7月8日の試合では「黙とう」を捧げた。他にそこまでした球団はないことが救いではある。東京ドームの客がみんな安倍晋三の支持者ではなかったと思うが、巨人は今後、政治家の死の度に喪に服することにしたのか、と聞きたい。

「安倍晋三は特別だったのだ」という今の空気は、国論を分断した強権政治家の評価を一気に覆すような危険性をはらんでいる。

安倍晋三を殺害した犯人に、一片の同情の余地もないが、死んだのは他の国民と同様、一個の命であって、それ以上でもそれ以下でもない。「殺人」はどんなものであっても肯定してはいけないし、憎むべきものだが、それだけのことだ。
かの山上容疑者に対して、今後「死刑を」と言う声が上がるだろうが、司法は誤りのない判断をしてほしいと思う。


NOWAR


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