私が子供の頃は「根性」全盛時代だった。
「思い込んだら、試練の道を 行くが男のど根性」とか「ど根性ガエル」とかそういうのが巷にあふれていた。根性の上に「ど」をつけて、強調していたものだ。
スポーツと「根性」を掛け合わせた「スポ根」が大流行していた。「巨人の星」はその象徴的な存在だが「アタックNo.1」とか「柔道一直線」とか、ほかのスポーツでもそういうのが主流だった。梶原一騎と言う原作者の存在が大きかったと思うが。

高度経済成長期の日本では、働けば働くほど儲かった。休む間もなく夢中で働いているうちに生活水準が上がり、豊かな生活を実現するに至った。まさに「根性」は、その時代の価値観だったと言えよう。

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「根性」は端的に言えば「忍耐力」だ。辛いこと、苦しいこと、痛いことに耐え、我慢し続けることで活路が拓ける。スポーツでいえば激しい練習をすることで体力がアップし、技量も向上する。さらに言えば「根性」は、何らかの目に見えない「運」も引き寄せるとも思われていた。

どんな時代でも何事でも、努力を重ねることは大事だが「根性」には、いくつかの問題点があった。

一つは「根性」は「誰かに強要、強制されたこと」に対して発揮されることが多い点。自発的に発願し、何かについて頑張るときに「根性」とはあまり言わない。指導者や上司などに課せられた課題に死に物狂いで取り組む時に「根性」は発揮される。主体性がない場合が多いのだ。また「根性」をよく口にする人は、目上の人にへいこらすることが多い。

二つ目には「根性」は「合理性」と相いれないが観念であること。「こうしたほうがより楽に目標に到達できる」としても、それよりもよりきつくてハードな道を選択することが「根性がある」と思われがちだ。また「根性」は科学的な合理主義を否定する場合も多い。「ごちゃごちゃ考えている暇があったら、身体を動かせ、働け」と言いがちである。

三つめは「根性」は自己目的化することが多いこと。「試合に勝ちたい」「打撃をよくしたい」「球速を上げたい」などもともとの目的はあるが、ハードなトレーニングを続けるうちに「根性をつける」ことが目的になることが多い。開星高校の野々村直通監督が「とにかくハードな練習をすることだ」というので「なぜですか?」と聞くと「根性がつくだろうが」と言われたことがある。

結局「根性がつく」ことのメリットは「辛いこと、嫌なことをさせられること」への耐性がつくということに尽きるが、その代償として「自分で考えること」「工夫すること」さらには「疑問を抱くこと」などが十全にできなくなる可能性があると言えよう。

「根性」は単純な競争社会では有効な徳目だったかもしれないが、一人一人が多様な生き方をして、自分だけの「幸せ」を希求するような今の世の中には必要がないだろう。

「俺がお前らの根性を鍛えなおしてやる」と言う指導者がいれば「一人でやっとけ」と言い返せばいいのではないか。


NOWAR


1982・83年松沼博久、全登板成績

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