“奈良県の高校野球は、天理と智辯が強くて、あとは「趣味程度」で野球をやっている”と言うコメントを貰った。コメント主に噛みつく気はないが「ふつうの高校の野球部」をたくさん取材している私はカチンときた。
「趣味程度」を辞書で引くと
「技能や能力が素人の水準であるさま」と出てくる。
類語としては
「アマチュアの真似事の」「素人芸の」「アマの」「素人レベルの」「素人程度の」
が出てくる。要するに「蔑む言葉」なのだ。

私は高校野球のリーグ戦で、全国の公立校を取材している。選手や指導者に話を聞くが、選手は「このプレーができるようになりたい」「こんな球を投げられるようになりたい」「試合に出たい」「勝ちたい」と思っている。そして指導者は「もっと考えた野球ができるようなチームにしたい」「あいつの能力を引き出したい」「子供を成長させたい」と思っている。
例え甲子園に縁がなくとも「趣味程度」で野球をしている野球部にはお目にかかったことがない。

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甲子園に行く可能性がないような高校は「趣味程度」で野球をやっている。どうでもいい連中、ゴミみたいな連中だ。

というのは、旧来の高校野球ファンの認識だろう。レベルの低い連中が練習したり、野球をするのは、意味がない。価値がない。
「勝利至上主義」の裏返しとも言える、こうした認識が、日本中にはびこっている。地方大会前に出る高校野球雑誌などもそうした観点で書かれている。

「強くなければ」「甲子園に出る可能性がなければ」野球をする値打ちがないと言う「旧来の価値感」が、野球のすそ野をどんどん小さくしている。小学校時代から「下手な子は試合に出ることができない」「声だしだけ」「出たかったらうまくなれ」、一方でうまい子は「試合で投げさせられて怪我をする」「野球が嫌になる」。その悪循環が「野球は怖くて野蛮だ」という認識につながっている。野球を嫌う子ども、親を増やしている。

実際には、普通の公立校でも「一生懸命野球をする」生徒がいるし「指導に生きがいを見出している」指導者もいる。公立校は転任が多いが、以前にいた学校と試合をして「あいつ、伸びたな」と昔の教え子の成長に目を細める指導者もいる。指導者同士も研鑽を積んでいる。

さらに言えば、いわゆる強豪校の監督で、普通の公立校の指導者や生徒を馬鹿にしているような人はほとんどいない。彼らは「指導する意義」「指導の難しさ」は、野球のレベルに拘わらないことを知っているからだ。

「あの学校の野球部は趣味程度で野球をやっている」と思ったり、口にしたりしたことがある人は、そのことを恥じるべきだ。高校野球を知っている人、野球の未来を考えている人は、そんな言葉は使わない。

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1982・83年松沼博久、全登板成績

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