1988年、私は大阪市北区の広告制作会社のアカウント兼コピーライターだった。日清食品の大きな仕事が進んでいた。

クライアントの担当者は筒井康隆の弟の筒井之隆さん、コーヒー飲料のブランドを新たに立ち上げると言うプロジェクトで、私はコピーを書かせてもらうことになっていたが、上司の判断で榎木富士夫さんにスイッチした。私は榎木さんにコピーの手ほどきを受けたから師匠のようなものだった。制作としては外れたが、アカウントとしてはプロジェクトに残った。自分が準備した仕事が、師匠とはいえ、他の人によって進んでいくのを見るのは、なかなか辛いことだった。
筒井之隆さんにしても、榎木さんにしてもビッグネームで、今から思えば身の程知らずではあったのだが。
とはいえ、まだ中途半端なキャリアであり、やめるような度胸はなかった。楽しまない日々だったが、ある日、6時ちょうどに会社を出て、タクシーをつかまえて大阪球場に行った。南海の試合を見るためだ。バブル期の広告制作会社が定時で終了することなどありえなかったが、あてつけもあってそうしたのだ。

Kadota


南海はこの年7連敗でスタート「南海やっても勝てません」とスポーツ紙に書かれていたが、門田博光がひとり元気で、その試合では右翼席にホームランを打った。
この年の門田はホームのユニフォームでは一人だけアンダーシャツの色が少し違っていたのが気になったが、神がかっていて、当たれば本塁打という感じだった。
左耳の後ろでバットをかまえると、あとはピタッと動かない。好球とみるや右足を高く上げてバットを一閃する。打球ははるか遠い右翼席へと消えていくのだった。

私は10年ほど前から大阪球場に通っていた。お客は相変わらず少なかったが、私は「野球ってこんなに面白かったのか」と思った。それからは6ピタで大阪球場行きを続けた。最初はあてつけだったが、次第に門田博光のホームランを見ることが目的になっていった。

2か月ほど6ピタが続くうちに、上司が見かねて声をかけてきた。私は悩みが長続きしない性分で、そのころには、毎日が楽しいような気分になっていたが、気づかわしげな上司の前では、神妙な顔をしていた。上司は「気持ちが戻ったら、また頑張ってほしい」みたいなことを言ったが、私は「よっしゃこれからも大阪球場に行ける」と心中で思いながら、小さな声で「はい」と言った。

結果的にお墨付きをもらったようになって、以後は大っぴらに6時で退社した。深刻そうな顔をして会社を出たがタクシーをつかまえてからはルンルンだった。
6時半の試合開始に間に合うように大阪球場に着き、正面ゲートをくぐってチケット売り場へ。前売り券は買ったことはない。バブル期で可処分所得はたっぷりあったから、ネット裏の席を買って客席に座る。
ビールの売り子(当時は高校生のバイト)からビールを買って飲みながらひたすら門田の打席を待った。大きなヤジを飛ばしていたのは、NHK大阪放送局のアナウンサーだった。他にもそういうファンがちらほら増えていった。

この年、門田博光は44本塁打、125打点で二冠王。南海ホークスは身売りを決定し、翌年から福岡ダイエーホークスとなる。

この年に門田博光を追いかけることができたことが、後年、野球ライターになったことにつながったのかもしれない。

この業界に入ってから何度か門田と顔を合わせることがあったが、本格的な取材はしないままだった。もし話ができれば「あの1988年」のお礼を言いたかった。



NOWAR


1960~62年柿本実、全登板成績

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