コメントで「東海大菅生の丸坊主は生徒が自主的にやったものだ」というのがあった。「何も知らない人から見ればそう見える」というのもあった。

高校野球はカルト教団ではないはずだ。何も知らない、関心もない人々も含め、広く社会の「理解」「支持」のもとに、成り立っている普通の学校部活だ。

指導者が不祥事を起こして解任されたことで、社会の注目を集めている学校の部員が、突然、全員、丸坊主になったら、世間はどんな風に感じるか?そこからどんなサインを受け取るか?

自主的に生徒がこのタイミングで丸坊主にしようとしたら、いつもやっていると言っても、その負の反響を考えて、なぜ大人が止めなかったのか。
恐らくは大人が容れ知恵をして「丸坊主」にさせたのだろうが、狂気に近いと思う。

野球競技人口が減少しているのは、様々な原因に拠るが、高校野球がいわゆる「体育会系」で、オラオラであることが、世間から忌避されていることも大きい。
とりわけ坊主頭は、多くの若者から嫌われている。「坊主頭になるのが嫌だから、野球部に行かなかった」という声も多い。
普通の若者でさえも坊主頭だった昭和中期ないざ知らず、今の世の中で好き好んで坊主頭になるのは常に少数派だ。だから坊主頭を強制されるような部活には入らないと言う人が多いのだ。

「坊主」が意味するものはいくつかあるが、一つは「ユニセックス」、性差、性別を消すと言う意味合い、もう一つは「遁世」、この世から逃避すると言うニュアンスがある。僧侶が剃髪するのは性の煩悩や俗世の欲望から離れることを意味している。

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高校球児の坊主頭も「普通の生徒ではない」「修行中の身」というニュアンスを発信していたわけだ。

昭和の時代はそれが「清々しい」「高校生らしい」と概ね肯定的に受け止められたが、今では「自由抑圧」「ブラック部活」の象徴のようになっている。すでに丸坊主であるだけで「やばいサイン」にもなりつつあるのだ。

高校球界でも先進的な学校は丸坊主をやめている。私は慶應高校の森林監督と親しいが、慶應高校の学生が丸坊主でないことなど、特筆すべきことでも何でもなくなっている。今はそういう時代だ。

東海大菅生だけではなく、高校球界はそうした世の中の変化、トレンドに鈍感な人が一定数いる。それどころか時代に逆行するのが良いかのようにふるまう人もいる。

繰り返すが、「暴力沙汰」で監督が謹慎新処分になり、クビになった高校の野球部員が、いきなり全員、つるつる頭になったことが、世の中にどんなインパクトを与えるのか?それを想像する大人はいなかったのか?

少なくともこのことで「東海大菅生は怖い学校だ」と思った人がさらに増えたのは間違いない。

「いや、世間が何と言おうと菅生はこういうスタイルでやってきたんだ」
「何も知らないやつは勝手に吠えてればいいんだ」


それは高校野球の「私物化」だ。「趣味の世界」と言っても良い。そしてその趣味は「悪趣味」だ。


NOWAR


1960~62年柿本実、全登板成績

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