別に文春で永く記事を書かせてもらっているからそう言うのではない。もちろん、仕事しやすい会社だとは思っているけど。文春砲がなければ、近年の多くの「闇」は明らかになることがなかっただろう。
森友問題など、安倍晋三をめぐる様様なスキャンダル、甘利明や河井克行の案件、菅原一秀の案件。
文春砲をさかのぼれば、故立花隆の「田中角栄研究」に行きつくと思うが、立花以来「徹底的な取材と、権力の圧力を恐れぬ突破力」で、次々と悪事を暴いてきた。
スポーツ界でも清原和博の薬物疑惑や、朝の山、ちかくは坂本勇人など「インモラル」「ルール違反」さらには「違法行為」を次々と記事にしてきた。
芸能界ではアンジャッシュ渡部をはじめ、多くの有名人を失脚させた。

文春砲とは「権力者の違法な利権、ルール違反」「著名人が隠しておきたい悪事」などを忖度なく暴き立てて、世間に大きな波紋を投げかけてきた。これは自由主義社会の「メディアのあるべき姿」を体現していると言ってよい。端的に言えばジャーナリズムとは「人が隠したがる真実」を暴くことなのだ。

その過程で間違いや勇み足なども起こる。また権力者は事実を捻じ曲げて訴訟で勝利したりもする。

誤解を恐れずに言えば、それは「向こう傷」であって、こうした本物のジャーナリズムにはつきものだ。ウォーターゲート事件でも、ウッドワードとバーンスタインと言う若い記者は危ない橋を渡って、権力の妨害を受けながらも事件の真相にたどり着き、ニクソン大統領を失脚させたのだ。

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「芸能人やスポーツ選手なんか、権力者じゃないだろうが、彼らを血祭りにあげる必要などないんじゃないか」と言われるかもしれないが、セレブ、著名人は、社会的規範、モラルの中で行動してこそ社会に存在できる。セレブの特権をいいことに、悪事やインモラルを働く連中に弁護の余地はない。
また「芸能人のスキャンダル」は、世間の「大好物」だ。「他人の不幸は蜜の味」であり、それもジャーナリズムの一つの役割だ。著名人は富や特権と引き換えに、プライベートも「消費される」運命にあるのだ。もちろん一定の良識は必要ではあるが。

文春は、芸能界の記事でも「クオリティが高い」。後追い報道はあまりないし、ガセネタにくいつくことも多くない。多くのスタッフを抱え、法務部もしっかりしているから、他のメディアとは一味違うのだ。
また文春だっていろんな忖度はしているし、気配りもしている。そのうえで書いている。

本来、こうした役割は「新聞」が担っていた。しかし今の新聞は取材対象と癒着して「相手が嫌がる記事は書かない」ことになっている。また編集部は「コンプライアンス」と「労働基準法」を遵守するようになっている。要するに「魂を抜かれている」のだ。

何度も書いてきたが、本来、新聞などのメディアは「国民の知る権利」の代行者だ。だから、本来会えるはずのない地位の高い権力者にも、取材料が必要なはずのセレブにも、カネを払うことなく会うことができるし、どんな現場にもパスの申請なしに行くことができる。
それは新聞(テレビも含む)が、ただの「お仕事」ではなく、場合によっては法を乗り越えてでも「国民の知る権利」を代行することを付託されているということだ。
過去には政権のスキャンダルを暴いて有罪判決を受けた記者が結構いたものだ。新聞は彼らを援護する論陣を張った。今から思うと信じられないが。

新聞が腑抜けになったから、文春砲が目立っているだけで、文春は本来のジャーナリズムの役割を果たしているだけだ。

新聞が、どんどん部数を減らしてあと20年もしないうちになくなると言われている中、週刊文春は50万部をキープしている。そしてスキャンダルにもかかわらず「日本一の週刊誌」と言う評価を得ている。これは当然のことだと思う。週刊朝日が7万部に落ち込み、休刊に追い込まれたのは左の雑誌だからではない。「ヘタレの新聞社が作っている」からだ。



私には「文春砲」を打つような力も機会もないけども、私は文春を支持している。

文春だって間違うし、時には的外れも書くが、ほとんど読むに値しない記事ばっかり書いているすかすかの新聞とは比較できないほどクオリティが高い。この事実に刮目すべきだ。



NOWAR


1960~62年柿本実、全登板成績

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