「トヨタクラウンズ」と検索しても、全く出てこないが、トヨタは、プロ野球チームを持とうとした時期があったと言う。2005年に出された、表記のこの本に書いてあった。

ときは1955年、トヨタが自前で開発した「クラウン」を発売、これが現在の世界一の自動車メーカー、トヨタの地歩を固めることとなったが、ときの社長、石田退三(1888-1979)が無類の野球好きだったと言う。

石田退三と言えば、丁稚から身を起こし、トヨタの祖、豊田佐吉の豊田自動織機製作所に入社、自動車部の創設に尽力した立志伝中の人物だ。倹約家で、無駄な出費は一円たりとも出さないという考えの持ち主だったが、野球が好きだった。

そこで当時、中日新聞社と名古屋鉄道が共同で保有していた「名古屋ドラゴンズ」を買収し、当時のトヨタの目玉だったクラウンの名前を付けて「トヨタクラウンズ」にするという考えを打ち出したのだと言う。

ただ石田自身は熱烈な巨人ファンだった。同じリーグのライバル球団を持つことに、多少の矛盾を感じていた。
それだけでなく、社内から反対の声が上がった。
「阪神ファンや巨人ファンが、クラウンに乗らなくなる」
と言われたのだ。

Chunichi


近頃物故した創業家の豊田章一郎は、当時取締役だったが、野球はそれほど好きではなく、中学時代サッカー部だったこともあり、サッカーファンだった。だからトヨタ自動車工業サッカー部が、Jリーグに参入して名古屋グランパスエイトになることはすんなり決まったようだ。ちなみに「エイト」は、名古屋市の市章の「丸八」にちなんでいるが、豊田章一郎が命名したと言う。

トヨタ自動車硬式野球部はサッカーよりも遅れて戦後に創設されたが、当時は社員の福利厚生の一環として大企業が社会人野球チームを保有するのは「当たり前」だった。しかし2リーグ分裂時にはトヨタはまだ成長途上だったから、国鉄や大洋のように会社のチームをプロ化する声は出なかったようだ。
Jリーグができた1990年代にはトヨタは世界的な大企業になっていた。このタイミングの差も大きかったようだ。

結局、社内の賛同の声も広がらず、石田退三は「トヨタクラウンズ」をあきらめた。

球界再編直後に出されたこの本は、日本プロ野球の旧態依然とした経営を批判するのが本旨であり、トヨタの話は前振りにすぎない。武富士や佐川急便が球団買収に乗り出したことがあるとか、面白いことが書かれている。

他に言及した本が無いようで、信ぴょう性はわからないが「お話」として紹介しておく。


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1960~62年柿本実、全登板成績