このたとえがいいの悪いのと言うご指摘を受けるが、窮地に陥った藤浪晋太郎に対して、自らは安全な立場から心無い言葉を投げつける人に対して、これ以上の良いたとえは見当たらない。
「『水に落ちた犬を叩く』の原典を知らないのか?」みたいな指摘も来たけど、これ、厳密にはことわざの類ではない。

指摘にもあったが、「水に落ちた犬を叩く」が日本で広がったのは、魯迅の評論にあった
“至于‘打落水狗’,则并不如此简单,当看狗之怎样,以及如何落水而定。”と言うフレーズだ。
これは
「水に落ちた犬を打つ」のは簡単なことではない.犬はどんな犬なのか,そしてどうして水に落ちたのかを見てから決めなければならない.

ということのようだ。追い打ちをかける前に、犬=苦境に陥った者の、素性やどうして苦境に陥ったかを知らなければならない、と言うニュアンスだ。

「打落水狗」は、それ以前から中国にあった成句で、文字通り「弱り目にあるものに追い打ちをかける」と言う意味だ。日本にはこの魯迅の言葉以後、広がったので、魯迅が使ったニュアンスが正しいかのように言う人がいるが、そうではない。
魯迅は戦前の日本の若者にとって、最も人気がある言論人の一人だった。影響を受けた人は多かったのだ。

また「打落水狗」は、同じ中国の文化圏である韓国にも伝わり、慣用句のように使われている。この言葉は、韓国がルーツで、だから韓国人はだめだ、みたいな偏見は何の根拠もない。

実際のところ、日本でも韓国でも「水に落ちた犬を打つ」ような人は少なくない。それは、両国ともに「組織への帰属意識」が強くて、組織外に出たもの、アウトローの苦境を嗤ったり、蔑んだりする傾向があるからだ。

人間が一個の人間として独立して、自己責任で生きていくことが基本になっている欧米では、失敗した人間にたいして「だからいわんこっちゃない」的な言葉を投げかけることは少ない。彼が自分の責任で行ったことの帰結として、苦境に陥ったとすれば、それは彼だけのことであり、あと付けで責め立てるようなことではないからだ。

「水に落ちた犬を叩く」とは、自分が一個の人間として独立独歩で生きていると言う信念に乏しい人間が、自分の力で歩こうとして失敗した人間を冷笑するさまを言うと言ってもよい。

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こういう状況を説明するのに「水に落ちた犬を叩く」以外の日本語のたとえがあるか、と考えてみたいのだが、中々思いつかない。「泣きっ面に蜂」では「叩く」のニュアンスが出ない。「弱り目に祟り目」も違う。
上方落語に
「口の端のまま粒かき落とす」と言う言葉がある。「生活困窮者の口の端に、わずかに引っかかったご飯粒さえかき落とすような、非情な行為」ということだが、これが近いか。

藤浪晋太郎はずば抜けて大きいだけに、大型犬が水に落ちて困っているさまが目に浮かぶ。今日は、大谷翔平とうわべだけは楽しそうに口をきいていたが、ぜひ水から這い上がってプライドを取り戻してほしい。
私の気持ちは、中島みゆきのこのフレーズに尽きる

ファイト!闘う君のことを、闘わない奴らが笑うだろう

ファイト!冷たい水の中を、泣きながらのぼっていけ



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