中西太が90歳で逝去した。これで西鉄ライオンズの偉業を達成した投打の「4傑」はすべて鬼籍に入った。
三原脩や稲尾和久の伝記記事をNumber Webに書いたが、いろいろ調べて分かってきたのは「九州」という当時は貧しい「地方」が、「中央」であり圧倒的な経済格差のあった「東京」に対して捨て身でぶつかっていったレジスタントの記録だということだ。

三原脩が監督を務めた西鉄の成績と主要選手。

Mihara-Lions


三原が巨人の総監督という「棚上げ人事」を蹴って、西鉄の誘いを受けて九州に来たのが1951年。西鉄クリッパーズと西日本パイレーツの合併チームだったが、打は西日本に優秀な選手が多く、関口誠二を中心に打線を組む。投は西鉄の川崎がエース格。

2年目に大下弘を東急から獲得、超大物中西太が新人で入る。3年目に豊田泰光が入団。4年目にこれらの
選手が活躍してリーグ優勝するが杉下茂の中日に日本シリーズで敗れる。

1956年からのリーグ3連覇は、何と言っても稲尾和久の加入が大きい。他の投手が1年だけ活躍して落ち込む中で、稲尾はこの3年、圧倒的な成績を残す。
これに中西太、豊田泰光の全盛期が重なった。

不倶戴天の敵、水原茂率いる巨人は、日本シリーズで3年連続で西鉄に敗退するのだ。

巨人が、大学卒を中心としたエリートが中心だったのに対し、西鉄は高卒選手が中心。甲子園のスター選手もいたが、活躍したのはたたき上げの選手だった。

中西太は、稲尾和久とともに圧倒的な成績でチームを引っ張った。4回も三冠王に手が届きそうになって逸しているが、その成績は驚異的だ。

当時の記事を読むと三原脩は「適度なセックスは問題ないが、深酒はやめろ」と言っている。この点でも巨人とは大違いだった。選手は試合が終わると宿舎で記者たちとマージャン卓を囲んだ。もちろん賭け麻雀である、選手に身ぐるみはがされた記者もいる。

中西太は三原脩の娘と大恋愛の末に結ばれたから、無茶はしなかっただろうが。

何でもあり、勝ちさえすればなんでも許された昭和の時代の話だ。プロ野球も日本も「青春」だった時代と言っても良いかもしれない。

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