「週刊誌はいい加減なことを書いてけしからん」「こんな偏った記事を書きやがって」みたいなことを言う人がいるが、それは大体においてリテラシーのない情報弱者だ。
「言論の自由」とは、民主主義や人権に配慮する限りは「どんな意見を言っても良い」ことを言う。
事実無根は問題外にしても、事実、客観的報道に基づく限り、どんな極論であっても意見を述べることができるのが、民主主義社会というものだ。
よく「公平中立な報道を」というが、そんなものはこの世に存在しない。一つの意見に対し、反論があるのは当然のことであり、喧々諤々になるのが普通なのだ。「その間を取る」と言っても、様々な見方があるから「落としどころ」など本当はあるはずがない。
「公平中立」というのは、「体制側」「政権側」がいうことが多い。自分たちの不正や問題点が指摘されたときに「俺たちの言い分も伝えろよ」というニュアンスで「公平中立」というのだ。
また政権、体制を支持する人は「政権側が発表する意見こそが公平中立」だと思っていることが多い。それって、基本的には中華人民共和国と同じである。

中華人民共和国やロシアなどは「正義」は、国家、独裁者が規定する。それに反する意見はすべて「違法」であり、法律を厳密に適用することなく弾圧することができる。その代わりに国家の方針や意見は首尾一貫していて、矛盾や混乱はない。
しかし、それは「民主的な言論の在り方」ではないのだ。多様性を認める社会とは、いろいろな意見がそのまま存在する社会のことだ。意見を受け止める民衆は、それぞれ自分の考え、判断力で、いずれかの意見に指示を表明する。その総体が「世論」を形成するのだ。
「まとまりがない」「首尾一貫しない」は、民主主義社会では当然のことなのだ。
民主主義はいつの時代も「ベターな体制」でありベストではないと言われてきた。非効率で、時として矛盾した結論も導き出すからだ。しかし利害の一致しない人がいるのが当然の社会では、それが「当たり前」であり、我々はその都度判断するしかないのだ。
ただ、人権と言う観点でいえば「被害者」に対して、根拠のない憶測でモノを言うのは「意見」とは言わない。山川穂高の事件で、被害女性に対して「美人局」とか「合意の上」とか「金目当て」というのは、その可能性が否定できないとしても、言ってはいけない。いわゆる「セカンドレイプ」の類で、もしそれが真実でなかったときは、被害者を深く傷つけるからだ。こういう意見は「言論の自由」の範疇を逸脱している。
同様に、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性、ラスナヤケ・リヤナゲ・ウィシュマ・サンダマリが死亡した事件で、日本維新の会の参議院議員の梅村みずほが「ハンストによる死亡」の可能性に言及したのは、浅薄で愚かな意見だと言える。たとえその可能性があるとしても、事実関係が不明なのに「可能性」に言及するのは、被害者、しかもすでに死者になっている人物を鞭うつ行為であり、まともな意見ではない。
日本維新の会は今、日の出の勢いだが、議員は公募中心だから、こういう人権や言論の意味さえ知らない愚かな人が、ただ元気がいいだけで議員になってしまったりする。
難しい時代になったと思うが、今こそ一人一人の「リテラシー」が必要とされている。
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よく「公平中立な報道を」というが、そんなものはこの世に存在しない。一つの意見に対し、反論があるのは当然のことであり、喧々諤々になるのが普通なのだ。「その間を取る」と言っても、様々な見方があるから「落としどころ」など本当はあるはずがない。
「公平中立」というのは、「体制側」「政権側」がいうことが多い。自分たちの不正や問題点が指摘されたときに「俺たちの言い分も伝えろよ」というニュアンスで「公平中立」というのだ。
また政権、体制を支持する人は「政権側が発表する意見こそが公平中立」だと思っていることが多い。それって、基本的には中華人民共和国と同じである。

中華人民共和国やロシアなどは「正義」は、国家、独裁者が規定する。それに反する意見はすべて「違法」であり、法律を厳密に適用することなく弾圧することができる。その代わりに国家の方針や意見は首尾一貫していて、矛盾や混乱はない。
しかし、それは「民主的な言論の在り方」ではないのだ。多様性を認める社会とは、いろいろな意見がそのまま存在する社会のことだ。意見を受け止める民衆は、それぞれ自分の考え、判断力で、いずれかの意見に指示を表明する。その総体が「世論」を形成するのだ。
「まとまりがない」「首尾一貫しない」は、民主主義社会では当然のことなのだ。
民主主義はいつの時代も「ベターな体制」でありベストではないと言われてきた。非効率で、時として矛盾した結論も導き出すからだ。しかし利害の一致しない人がいるのが当然の社会では、それが「当たり前」であり、我々はその都度判断するしかないのだ。
ただ、人権と言う観点でいえば「被害者」に対して、根拠のない憶測でモノを言うのは「意見」とは言わない。山川穂高の事件で、被害女性に対して「美人局」とか「合意の上」とか「金目当て」というのは、その可能性が否定できないとしても、言ってはいけない。いわゆる「セカンドレイプ」の類で、もしそれが真実でなかったときは、被害者を深く傷つけるからだ。こういう意見は「言論の自由」の範疇を逸脱している。
同様に、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性、ラスナヤケ・リヤナゲ・ウィシュマ・サンダマリが死亡した事件で、日本維新の会の参議院議員の梅村みずほが「ハンストによる死亡」の可能性に言及したのは、浅薄で愚かな意見だと言える。たとえその可能性があるとしても、事実関係が不明なのに「可能性」に言及するのは、被害者、しかもすでに死者になっている人物を鞭うつ行為であり、まともな意見ではない。
日本維新の会は今、日の出の勢いだが、議員は公募中心だから、こういう人権や言論の意味さえ知らない愚かな人が、ただ元気がいいだけで議員になってしまったりする。
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