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「私は君たちよりもすっと年長だし、いろんな経験もして、野球のことをよく知っているから、私の言うことを聞きなさい」と言った時点で、その指導者が「球数制限」に積極的であっても、選手に対するパワハラ、暴力に否定的でも、本質的には「昔のまま」ということになるだろう。
日本の野球は「指導者が圧倒的な上位者」として、選手を「指導」してきた。この場合の「指導」とは、ほとんど「こうせよ」という「命令」だった。これによって、選手は「何をすればよいか」を「教えられ」「指示されて」、練習したり、試合をしたりしていたわけだ。

それが「試合全体のこと」「作戦」「練習方針」などであれば、指導者が「リーダーシップ」を発揮するのは、これまでの感覚としてわからないではない。
しかし、選手個々の「髪型」のような個人的なことまで「指導者」「学校」が決めることで、選手は主体性を失い、自分で何も判断せず、上位者に依存するようになる。
「坊主頭」は「指導者」や「これまでのやり方」に盲従する高校生の「象徴」のようなものだ。

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「坊主頭」の是非の問題も含めて、選手たち自身が決めていく。それが指導者から「野球」を選手に取り戻す一歩になるはずだ。
慶応高校などは「いつから長髪になったかわからない」ほど以前から、髪型は自由だが、それだけではなく「選手が自分で考え、練習プランを立てて、努力する」のが普通になっている。
「頭髪自由」になるだけで、選手の意識が変わるのだ。
選手の話を聞いても「森林さん(慶應では監督はさん付け)は、僕たちのやることに一切口を挟まない、信頼しているから」というが、結局「頭髪自由」はその象徴なのだ。

「指導者が選手を指導するのは、当たり前だろうが、そのために指導者がいるのだ」という理屈を指導者自身が言っている限りは、何も変わらない。

「城は明け渡さなければならない」

「頭髪だけでなく、選手にすべて判断させる」ためには、指導者自身が意識を変革することと、そのことを選手によく理解させることが必要だ。並大抵のことではない。
しかし、全国の高校野球指導者が意識を変えれば、日本野球は変わっていく。



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