
二代目桂ざこば(1947~2024)の初名は桂朝丸。三代目桂米朝にとっては、三代目桂米紫、月亭可朝、二代目桂枝雀に次ぐ4番弟子だった(米紫の前後に、三代目桂三木助からの預かり弟子がいたようだが)。
しかし、米紫と可朝は、米朝が松竹芸能から独立して米朝事務所を作ったときに同行していないので、実質的には枝雀に続く二番弟子だった。
ざこばの両親は離婚し、ざこばは母に育てられた。母の実家は日本橋にある「関口」という精肉店だ。今は割り下を使わない純関西風の「すきやき」の名店「せきぐち」を併設するなど、立派な店だが、当時はそうではなく、ざこばは中学時代から苦学していたようだ。
しかし米朝に入門してからは、早いうちに名前が売れた。師匠の米朝が司会を務める関西テレビ「お笑いとんち袋」に枝雀と共にレギュラーになった。
また「動物いじめ」というネタが人気となり、テレビの演芸番組にも出演。このネタは四代目桂文紅が作っていたともいう。文紅は、私は世話になった噺家だった。今なら無理なネタではあるが。
さらには日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のレポーターとなり、タレントとして大いに売れた。「新聞によりますと!」というフレーズは今も耳の底に残る。
私が通っていた大阪の明星高校は、1年下の野球部が、女子高生の売春をあっせんすると言う破廉恥な事件を起こしたが、このとき「ウィークエンダー」がやってきて、当時の朝丸が、身振り手振りを交えて紹介した。明星高校は、甲子園で優勝した強豪校だったが、この事件が契機となって、学校側が野球部の特別待遇をやめたために、以後は甲子園に出ていない。
後年、ざこばに「『ウィークエンダー』で取り上げられて、ずいぶん恥ずかしかった」と話したことがあるが「そんなん、おまはんの学校やなんて知るかいな。仕事やがな」と言われたのを覚えている。当然ではある。
落語の方では、それほど知られた存在ではなかったが、米朝が京都、安井の金毘羅でやっていた勉強会にはよく顔を出していた。30代になるころから本格的に落語に打ち込んだが、兄弟子桂枝雀の大活躍に影響されたのだろうか。
1つのネタをある落語会までに仕上げると決まると、その頃たくさんあった若手噺家が主催する「地域寄席」に飛び入りで出演してお客の反応を見ながら練り上げていった。代表的な持ちネタである「狸の化け寺」は、そういう形で完成させたと思う。一門の月亭八方も、地域寄席でネタをかけることでシェープアップさせていた。二人は人気者であるとともに、落語に対する向き合い方も真面目だった。

桂米朝は、一門の系統に関わらず、昔の名跡を復活させることに熱心で、実質的な筆頭弟子の小米を二代目桂枝雀に、朝丸を二代目桂ざこばにした。枝雀、ざこばともに戦前ににぎやかな芸風で大いに売れた噺家だ。同様に孫弟子の桂べかこも、三代目桂南光を襲名させた。
自らのキャラクターを活かした「強情」「天災」「崇徳院」などが面白かった。「子は鎹」は、六代目笑福亭松鶴の形だった。師匠米朝だけでなく、六代目松鶴や、その弟弟子の笑福亭松之助とも仲が良く、何かと摩擦が起こりがちだった米朝一門と松鶴一門の緩衝材になっていたと思う。
持ちネタはそれほど多くなかったが、米朝系統だけでなく他の一門の噺もあったし、東京落語の演目もあった。笑いが多い、得な噺だけでなく、可朝譲りの「坊主茶屋」や「肝潰し」などの難しい噺にも取り組んだ。真面目な人だったのだと思う。
米朝の実子である五代目桂米團治を噺家にしたのは、枝雀とざこばだったというのは、米團治本人から聞いた。父親がいなかったから、米朝を実の父と思い、米團治を弟だと思っていたのだろう。
惣領弟子の四代目桂鹽鯛(前名:桂都丸)を始め弟子にも恵まれた。二番手弟子の桂喜丸に先立たれたのは気の毒だったが。
師匠の桂米朝はすさまじいヘビースモーカー、枝雀は喫わなかったが、ざこばも愛煙家だった。そのために寿命を縮めたのではないかと思う。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!

https://amzn.to/47hJdhC
年度別チーム第1号本塁打は俺だ! 広島編

ざこばの両親は離婚し、ざこばは母に育てられた。母の実家は日本橋にある「関口」という精肉店だ。今は割り下を使わない純関西風の「すきやき」の名店「せきぐち」を併設するなど、立派な店だが、当時はそうではなく、ざこばは中学時代から苦学していたようだ。
しかし米朝に入門してからは、早いうちに名前が売れた。師匠の米朝が司会を務める関西テレビ「お笑いとんち袋」に枝雀と共にレギュラーになった。
また「動物いじめ」というネタが人気となり、テレビの演芸番組にも出演。このネタは四代目桂文紅が作っていたともいう。文紅は、私は世話になった噺家だった。今なら無理なネタではあるが。
さらには日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のレポーターとなり、タレントとして大いに売れた。「新聞によりますと!」というフレーズは今も耳の底に残る。
私が通っていた大阪の明星高校は、1年下の野球部が、女子高生の売春をあっせんすると言う破廉恥な事件を起こしたが、このとき「ウィークエンダー」がやってきて、当時の朝丸が、身振り手振りを交えて紹介した。明星高校は、甲子園で優勝した強豪校だったが、この事件が契機となって、学校側が野球部の特別待遇をやめたために、以後は甲子園に出ていない。
後年、ざこばに「『ウィークエンダー』で取り上げられて、ずいぶん恥ずかしかった」と話したことがあるが「そんなん、おまはんの学校やなんて知るかいな。仕事やがな」と言われたのを覚えている。当然ではある。
落語の方では、それほど知られた存在ではなかったが、米朝が京都、安井の金毘羅でやっていた勉強会にはよく顔を出していた。30代になるころから本格的に落語に打ち込んだが、兄弟子桂枝雀の大活躍に影響されたのだろうか。
1つのネタをある落語会までに仕上げると決まると、その頃たくさんあった若手噺家が主催する「地域寄席」に飛び入りで出演してお客の反応を見ながら練り上げていった。代表的な持ちネタである「狸の化け寺」は、そういう形で完成させたと思う。一門の月亭八方も、地域寄席でネタをかけることでシェープアップさせていた。二人は人気者であるとともに、落語に対する向き合い方も真面目だった。

桂米朝は、一門の系統に関わらず、昔の名跡を復活させることに熱心で、実質的な筆頭弟子の小米を二代目桂枝雀に、朝丸を二代目桂ざこばにした。枝雀、ざこばともに戦前ににぎやかな芸風で大いに売れた噺家だ。同様に孫弟子の桂べかこも、三代目桂南光を襲名させた。
自らのキャラクターを活かした「強情」「天災」「崇徳院」などが面白かった。「子は鎹」は、六代目笑福亭松鶴の形だった。師匠米朝だけでなく、六代目松鶴や、その弟弟子の笑福亭松之助とも仲が良く、何かと摩擦が起こりがちだった米朝一門と松鶴一門の緩衝材になっていたと思う。
持ちネタはそれほど多くなかったが、米朝系統だけでなく他の一門の噺もあったし、東京落語の演目もあった。笑いが多い、得な噺だけでなく、可朝譲りの「坊主茶屋」や「肝潰し」などの難しい噺にも取り組んだ。真面目な人だったのだと思う。
米朝の実子である五代目桂米團治を噺家にしたのは、枝雀とざこばだったというのは、米團治本人から聞いた。父親がいなかったから、米朝を実の父と思い、米團治を弟だと思っていたのだろう。
惣領弟子の四代目桂鹽鯛(前名:桂都丸)を始め弟子にも恵まれた。二番手弟子の桂喜丸に先立たれたのは気の毒だったが。
師匠の桂米朝はすさまじいヘビースモーカー、枝雀は喫わなかったが、ざこばも愛煙家だった。そのために寿命を縮めたのではないかと思う。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!

https://amzn.to/47hJdhC
年度別チーム第1号本塁打は俺だ! 広島編
