「光る君へ」は、だいたい毎週見ている。このところ日曜に出張が入ることが多いが、NHK-Plusで見逃し配信も見ている。
一昨年の「鎌倉殿の13人」は、特に後半は熱心に見ていた。北条義時と言う一見地味な人間が主人公だったが、三谷幸喜の人物の「彫り込み」が見事で、北条家、頼朝家などの「家族の肖像」を陰影深く描きつつ、その背景に、古代から中世へと動く大河のような歴史の流れも浮かび上がってくる。まさに「大河ドラマ」とはそういうものだと思った。
昨年の「どうする家康」は、どうしようもないでしょう、という作品だった。主演の松本潤がどうのというより、脚本家が「何を描きたいのか」が全然見えなかった。
家康の最初の妻の築山殿と倅にまつわる悲劇も、結局、築山殿の「お花畑」みたいな理想論が原因でした、みたいになっていて「そんなあほな」となったのだ。
で、今回は、戦争もなければ、侍も登場しない、かつてない地味で平坦な時代が舞台で、どうなるかと思ったが、大石静という脚本家は腹が座っているのだ。
紫式部と藤原道長が幼馴染の「恋仲だ」という設定にし、それを主旋律にして、平安朝の上流階級と、下級貴族の生活を交互に描いていく。その接点が「まひろ」こと紫式部なのだ。この巧妙な設定。
そして、恋愛模様が憎たらしいほどうまく描かれている。このあたり72歳の脚本家にしてみれば「お手の物」なのだろう。今「オードリー」という朝ドラの再放送をやっている。脚本は当時48歳の大石静だが、ここでもつかず離れずの難儀な「男女の仲」を転がして、視聴者の気を引いている。
ただ、どんなに良い台本であっても、大河のような時代劇の場合「時代としてのリアリティ」がないと、興ざめになる。昨年の「どうする」は、その部分が全然だめだった。
今年は倉本一宏さんという、下情に通じた平安時代の専門家が時代考証を担当しているから、そこらあたりの塩梅が良いのだ。予算が潤沢な大河ドラマは、時代考証でさえ何人もつくことがあるようだが、今年は倉本さんだけ。それもいいのかもしれない。
私は倉本さんの愛読者で「公家源氏」とか「一条天皇」とか「御堂関白日記を読む」みたいな本を以前から愛読してきたが、この先生は「系図」を実にうまく使って、天皇家と公家社会の関係を我々にもわかるように説明する。
また、無名の下級貴族の生涯なども生き生きと描いている。
こういう先生がいて、大石静が「こういうことにしたいんですけど」と言うと「うーん、ま、いいんじゃないですか」みたいになっているのだろう。
大河ドラマというのは歌舞伎とよく似た構造になっている。誰もが知る「おはなし」が根底にあって、それを脚本家、演出家、役者がどう解釈し、描いていくのかがポイントだ。
もちろん「独自解釈」があってもいいのだが、それによって「みんなが知っている歴史ドラマ」の筋書きが変わってしまうのは「ちょっと」となる。
脚本家の腕の見せ所は、史実にどんな「補助線」を引くのか、ということだ。
昔「新選組!」で若かりし三谷幸喜が近藤勇と坂本龍馬が顔見知りだった、という脚本を書いたが、こういう線引きはいただけない。以後のドラマが作り話に見えて、どっちらけになる。
大河の脚本の肝は、あくまで「補助線」だということだ。史実をおかしな方向に捻じ曲げず、しかも「面白い」という「補助線」が大事なのだ。
そういう意味で平安時代は、戦国時代や幕末などに比べて、情報量が圧倒的に少ないから「補助線」の自由度が結構あるのだ。
「どうする」では、お市の方と徳川家康が「幼馴染で恋仲」みたいな補助線を引いて、「そんな馬鹿な」「好きにせえや」みたいになってしまったが、「光る君へ」で、紫式部と道長が同じく「幼馴染で恋仲」というのは、情報が少ない分「そうだったかもしれない」と納得できる部分があるのだ。
この、ほんのちょっとのさじ加減で、大河ドラマは毎週見たいか、そうでないか、の区別ができてしまう。「どうする」の脚本家は古沢良太だが、この人一人が悪いと言うより、NHKが「もっと自由に」「大胆に」と煽った挙句、トンデモ大河になったのではないかと思う。
それにしても今の一流の「脚本」というのは、本当に重層的で、伏線改修などトリックも巧みで、よく考えられている。こういうのを見ると、NHKのドラマは大したものだと思う。NHK党の立花党首はこういうの見てないんだろう。
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昨年の「どうする家康」は、どうしようもないでしょう、という作品だった。主演の松本潤がどうのというより、脚本家が「何を描きたいのか」が全然見えなかった。
家康の最初の妻の築山殿と倅にまつわる悲劇も、結局、築山殿の「お花畑」みたいな理想論が原因でした、みたいになっていて「そんなあほな」となったのだ。
で、今回は、戦争もなければ、侍も登場しない、かつてない地味で平坦な時代が舞台で、どうなるかと思ったが、大石静という脚本家は腹が座っているのだ。
紫式部と藤原道長が幼馴染の「恋仲だ」という設定にし、それを主旋律にして、平安朝の上流階級と、下級貴族の生活を交互に描いていく。その接点が「まひろ」こと紫式部なのだ。この巧妙な設定。
そして、恋愛模様が憎たらしいほどうまく描かれている。このあたり72歳の脚本家にしてみれば「お手の物」なのだろう。今「オードリー」という朝ドラの再放送をやっている。脚本は当時48歳の大石静だが、ここでもつかず離れずの難儀な「男女の仲」を転がして、視聴者の気を引いている。
ただ、どんなに良い台本であっても、大河のような時代劇の場合「時代としてのリアリティ」がないと、興ざめになる。昨年の「どうする」は、その部分が全然だめだった。
今年は倉本一宏さんという、下情に通じた平安時代の専門家が時代考証を担当しているから、そこらあたりの塩梅が良いのだ。予算が潤沢な大河ドラマは、時代考証でさえ何人もつくことがあるようだが、今年は倉本さんだけ。それもいいのかもしれない。
私は倉本さんの愛読者で「公家源氏」とか「一条天皇」とか「御堂関白日記を読む」みたいな本を以前から愛読してきたが、この先生は「系図」を実にうまく使って、天皇家と公家社会の関係を我々にもわかるように説明する。
また、無名の下級貴族の生涯なども生き生きと描いている。
こういう先生がいて、大石静が「こういうことにしたいんですけど」と言うと「うーん、ま、いいんじゃないですか」みたいになっているのだろう。
大河ドラマというのは歌舞伎とよく似た構造になっている。誰もが知る「おはなし」が根底にあって、それを脚本家、演出家、役者がどう解釈し、描いていくのかがポイントだ。
もちろん「独自解釈」があってもいいのだが、それによって「みんなが知っている歴史ドラマ」の筋書きが変わってしまうのは「ちょっと」となる。
脚本家の腕の見せ所は、史実にどんな「補助線」を引くのか、ということだ。
昔「新選組!」で若かりし三谷幸喜が近藤勇と坂本龍馬が顔見知りだった、という脚本を書いたが、こういう線引きはいただけない。以後のドラマが作り話に見えて、どっちらけになる。
大河の脚本の肝は、あくまで「補助線」だということだ。史実をおかしな方向に捻じ曲げず、しかも「面白い」という「補助線」が大事なのだ。
そういう意味で平安時代は、戦国時代や幕末などに比べて、情報量が圧倒的に少ないから「補助線」の自由度が結構あるのだ。
「どうする」では、お市の方と徳川家康が「幼馴染で恋仲」みたいな補助線を引いて、「そんな馬鹿な」「好きにせえや」みたいになってしまったが、「光る君へ」で、紫式部と道長が同じく「幼馴染で恋仲」というのは、情報が少ない分「そうだったかもしれない」と納得できる部分があるのだ。
この、ほんのちょっとのさじ加減で、大河ドラマは毎週見たいか、そうでないか、の区別ができてしまう。「どうする」の脚本家は古沢良太だが、この人一人が悪いと言うより、NHKが「もっと自由に」「大胆に」と煽った挙句、トンデモ大河になったのではないかと思う。
それにしても今の一流の「脚本」というのは、本当に重層的で、伏線改修などトリックも巧みで、よく考えられている。こういうのを見ると、NHKのドラマは大したものだと思う。NHK党の立花党首はこういうの見てないんだろう。
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