野球を熱心に見始めた頃、このおやじほど憎たらしい存在はなかった。野村克也率いる南海ホークスは、乏しい戦力で何とか覇権を握ろうとするが、阪急が常にそれを阻んだのである。
阪急ブレーブスには、およそ素人受けはしないが、渋い仕事をする選手がそろっていた。中田昌宏、石井晶、阪本敏三、大熊忠義、岡村浩二、中沢伸二、森本潔、長池徳士、外国人のスペンサー、石井茂雄、米田哲也、足立光宏、ここへ花の68年組で福本豊、加藤秀司、山田久志が加わるのだ。
みんなが大人で、やるべき仕事をする。野村一人が引っ張る南海とは、役者が違っていた。
現役時代の西本幸雄の成績。

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今回、こうして表にしてみて気付いたのだが、西本という選手も大人の仕事をする渋い選手だということが分かる。四球の数が三振よりも3倍近く多いのだ。30歳で別府星野組から新設なった毎日に参加した西本は、ラビットボールの時代とはいえ、長打力は望むべくもなかった。しかし、試合に勝つために、チームに貢献する方法は知っていたということだろう。1年目は7番一塁だったが、2年目以降は三宅宅三の控えとなるも、54年には一番一塁で起用された。この年は安打と四球で101回も出塁している。
毎日の監督となり、見事優勝に導くも1年で解任。これはオーナー永田雅一との衝突が原因だとされる。3年後阪急の監督になるときに、選手の支持を非常に気にしたのは新人監督としての苦い経験が根底にあったからだろう。以後、阪急で11年、上田利治にチームを譲り、近鉄で8年間、采配を振るう。

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監督としての数字を見ると、阪急でも近鉄でも数年間は試行錯誤の期間があるが、そのあとは確実にチームを強豪へと育てている。長期的視野をもって自ら望む陣容を整えていく。そんな息の長いチーム作りができたのだ。そして球団も目先の勝敗にこだわらず、西本を信頼してチームを委ねていたことが分かる。西本自身も、年齢差もあって選手をよく掌握していた。
パリーグが前後期制を導入した1973年、阪急は前期に突っ走って後期は「死んだふり」をしていた野村南海にまんまとプレーオフで寝首を掻かれる覇。このときには快哉を叫んだものだ。
近鉄に移籍後、近鉄のチームカラーが徐々に阪急に似てきたように思った。最大のライバルは古巣の阪急だったが、平野光泰、佐々木恭介、小川亨、羽田耕一、栗橋茂、石渡茂、吹石徳一と見事に地味な仕事人がそろうのだ。ここにチャーリー・マニエルが入る。大エースの鈴木啓志には気を使っただろうが、投手陣でも柳田豊、井本隆などが台頭する。太田幸司も西本の手で一人前になったのではなかったか。

引退後、プロ野球ニュースの「顔」の一人となる。夜、佐々木信也が関西テレビにふると、白髪の西本幸雄が画面に現れる。おもしろくなさそうな顔で、とつとつと話すのだが、それはいつも「やるべきことをやっていない」敗者を穏やかに諭すような解説だった。「こんな調子では、今シーズンの阪急は、私の顔のように暗いね」とか、意外なユーモアもあった。こんなに品の良い関西人は、珍しいと思った。
「ちょこちょこ、行ってますか?」というローカルCMを覚えている向きも多いのではないか。監督を退いてからの西本は、関西の知恵者、ご意見番として親しまれてきた。阪急グループかどこかの重役さんのような重厚感と品格があった。
川上哲治より1学年下だが誕生日は1か月違い。しかし、もっと新しい印象があるのは、西本が売り出したのが、川上よりも20年は遅かったからだろう。年に不足はないが、懐かしい人がいなくなったと思う。

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