昨日の「高野連は何を守ろうとしているのか?」に対して、多くの意見をいただいた。御礼申し上げたい。
以前からそうだが、私は野球界が抱える様々な問題について、皆様と意見交換をしてきた。「野球の記録で話したい」を標榜しているが、オピニオンの喚起ももう一つの目的だと考えてきた。
昨日の私の意見を、もう一度咀嚼しておきたい。

「日本学生野球憲章」の総則第2条(学生野球の基本原理)
① 学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。
② 学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする。
③ 学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない。
④ 学生野球は、一切の暴力を排除し、いかなる形の差別をも認めない。
⑤ 学生野球は、アンチ・ドーピングの教育、啓発、対策への取り組みを推進する。
⑥ 学生野球は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する。

高野連が、高校野球部の不祥事に対して、対外試合の禁止や部活動の停止などの処分を科す根拠となっているのは、この学生野球憲章だ。
この憲章は、あくまで理念をうたったものだから、これに抵触した時の罰則規定や適用ルールなどはない。憲章に違反した学校、生徒の処分は、高野連が自らの裁量で行っている。
かつては、部員の不祥事が発覚して、甲子園出場が決まっていた学校が宿舎から泣く泣く引き返した例もあったが、近年は、ルールを緩和する方向にある。
報知新聞蛭間豊章記者の4年前の記事を参照いただきたい

http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2008/08/post-5496.html

近年の高野連は、部員の個人的な非行の場合、連帯責任を問わない傾向にある。
「4人以下の問題行動は、野球部の体質の問題ではない」との見解も示している。
今回の不祥事は、この見解に照らして不問に付されたのだ。
蛭間記者は、これを「ご都合主義」と断じておられるが、まさにその通りだと思う。
部員の不祥事は、「何人がやったか」が問題ではない。その不祥事を生むような体質が、野球部やその学校に存在したかどうかを問うべきなのだ。
今回の作新学院の野球部員の犯罪は「一切の暴力を排除し、いかなる形の差別をも認めない」という憲章に抵触しているのは、明らかなように思われる。
たとえ一人であっても、看過できない問題のように思える。。

今朝の朝日新聞は、作新学院の不祥事をベタ記事で掲載したのみである。また、NHKなどの報道も非常に小さい。今日の作新学院対仙台育英への影響を極力小さくしたいという意図が見え見えである。
高野連と関連メディアは、ぐるになって、今回の不祥事をもみ消そうとしているように見える。

しかし、これは納得できない。過去にははるかに軽微な不祥事で処分を受けた学校もある。最近になって、なぜ処分を緩和したのか、その根拠が全く不明確だ。

今回の不祥事は、今の高校野球が抱える問題を反映しているように私には思える。

高校野球の強豪校は、全国から何十人もの有望な野球選手を集める。彼らは熾烈な競争にさらされる。レギュラーになり、ベンチ入りするのは、一握りの選手だ。残りは、高校3年間練習だけに明け暮れることになる。
野球部に所属しながら試合にも出ず、監督や指導からも目を掛けられないままに3年間を過ごす。

高校野球が教育の一環であるならば、こういう選手に目を掛けることも求められると思うのだ。

今回の不祥事(犯罪だ!)が、万年球ひろいの鬱屈によって生まれたとは断定できない。しかし、甲子園にも行かなかったこの野球部員が、面白くない気持ちで日々を送っていたことは想像に難くない。作新学院の指導者たちは、選手になれなかった野球部員に対し、どんなケアをしたのだろうか。



私は、サッカーでは、「11人ではなく、出られなかった選手も一緒に戦った」のようなコメントがしばしば聞かれるのに対し、野球では控え選手やベンチ入りできなかった選手に対するコメントが非常に少ないことを常々残念に思っている。
ワールドカップなどのゴールキーパーの控え選手は、正選手が怪我でもしない限り、出場機会はまずない。それでもモチベーションをキープできるのは、「リザーブも一緒に戦っている」という意識が強いからだと思う。

そういう気配りは、残念ながら野球界ではほとんど見られない。

高校野球は、プロに行くような有望な選手を集めて甲子園に行くことが至上命題になっている。少子高齢化によって生き残り競争に入っている私立高校にとって、それは学校の存続がかかった“事業”になっている。そして、その競争によって弾き飛ばされる多くの子供がいることは看過されがちだ。

今回の事件は、現在の高校野球のひずみによって生まれた事件である可能性も否定できないと思うのだ。
私立高校を中心とするこうした“半プロ球団化”を看過し、事件を個人的なものに矮小化しようとする高野連、高校野球関係者に対して、私は強い不信を抱かざるを得ない。

高野連は、学生野球懸賞に照らして高校球児の生活や倫理観を厳しく規定し、連帯責任のルールで縛ってきた。そのことの是非はともかくとして、そのルールは恣意的に緩和したり、曲解して良いとは思えない。高校野球をめぐる教育的な環境が、悪化している中で、緩和すべき根拠はどこにもないと思う。
こういういい加減な感覚で、手心を加えるくらいなら、いっそのこと、その裁量権を返上し、各高校の判断にゆだねるべきだと思うのだ。

学校によっては連帯責任を感じるところもあるだろう。そうでなくて、個人の不祥事と、野球部は別個だと言うところもあるだろう。学校は個々に判断すればよい。そしてその結果、世間の批判を浴びるのならば、それも自己責任ではないだろうか。
少なくとも高野連のお墨付きさえもらえば、あとは無罪放免と言う今の形よりもはるかに健全だと思う。

今回の私の主張は、不祥事を起こした学校を何が何でも厳罰に処せ、というものではない。高野連が当事者能力があるのならば、公平な判断をすべきだといっているのだ。そして、罪を犯した人間の多寡ではなく、その犯罪の背景にある問題をしっかり把握してほしいといっているのだ。

高野連は、明らかに守旧派になっている。高校野球を取り巻く今の問題を解決、改善する能力をもっていない。当事者能力がないと思う。
極論を言えば、高野連自身が、「学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない」という学生野球憲章に抵触している可能性さえあると思う。

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!