この選手も渋かった。物静かで目立たないが、野球センスはあったように思う。
慶應義塾大学に学力で入ったという珍しいキャリアが喧伝される選手だった(調べれば同様のキャリアの人は何人かいる)。それほど大きくなかったもののシュアな打撃の持ち主だった。



ずんぐりした体つきだが守備範囲は広く、堅実な守備を誇った。また、打撃でもミートがうまく、犠打も巧み、三振も少なかった。
ただ、とびぬけたものは持っていなかった。5ツールともに中~中の上という感じだろうか。2004年後半には1番右翼に定着し、赤田将吾との1,2番で売り出したが、翌年にけがをしてチャンスを失った。
同じくらいの実力でも左打者ならもう少し重用されたかもしれないと思う。またV9の巨人にいたら6番あたりを打っていい仕事をしたのではないだろうか。
キャリア9本塁打。未完成であっても長打力のある選手には注目が集まるものだ。佐藤はそういう選手に比べれば見劣りがした。
西武の強さはおそらく、佐藤や平尾などレギュラーを取っても良いクラスの「大人の選手」が内外野に結構いたことだと思う。
10月14日(日)「東京野球ブックフェア」で会いましょう!

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
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ずんぐりした体つきだが守備範囲は広く、堅実な守備を誇った。また、打撃でもミートがうまく、犠打も巧み、三振も少なかった。
ただ、とびぬけたものは持っていなかった。5ツールともに中~中の上という感じだろうか。2004年後半には1番右翼に定着し、赤田将吾との1,2番で売り出したが、翌年にけがをしてチャンスを失った。
同じくらいの実力でも左打者ならもう少し重用されたかもしれないと思う。またV9の巨人にいたら6番あたりを打っていい仕事をしたのではないだろうか。
キャリア9本塁打。未完成であっても長打力のある選手には注目が集まるものだ。佐藤はそういう選手に比べれば見劣りがした。
西武の強さはおそらく、佐藤や平尾などレギュラーを取っても良いクラスの「大人の選手」が内外野に結構いたことだと思う。
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佐藤の頃は高校もまだ特待生を獲っていませんでしたが2年時は二枚エースの一人として神奈川決勝まで行って日大藤沢に負けました。スリークウォーターから二段モーション気味にキレのいい球を投げるピッチャーでした。現在は「一芸」に名を借りた特待生だらけなので応援する気にもなりません。
大学では巨人に行った上田、大森、高橋ほど目立つ選手ではありませんでした。プロに行かなかった喜多や池辺より地味だったと思います。だから巨人には指名されなかったのでしょうが。高木大成も同じような感じですね(笑)。プロでは実力を発揮できなかった青島健太や堀場さんより格下だったのは間違いありません(笑)。
プロでは守備と力のないスウィングでの右打ちが目立っていたと思います。巧く自分の居所を探り当てたなという印象でした。これがここまでやってこれた要因でしょう。
母校(高校の方です)からプロに行ったのは9人(あくまで私独自の調査結果なので間違っている可能性があります)ですが、出世頭の白木義一郎、一時南海のエース的存在だった渡辺泰輔に次いで横沢七郎と並んで三番手という評価ではないでしょうか。
「プロ野球選手にならなかったら、弁護士を目指していました。」という、プロ入り直後のコメント、そして、大学卒業に必要な単位を3年次で全て取得してしまった、ということだけで、その優秀さが解ろうというものです。
慶應義塾大学の一般入試で合格したプロ野球選手というと、宇野光雄、佐々木信也、大橋勲、山下大輔、堀場秀孝、青島健太、鈴木哲くらいしか知りませんでした。
厳密にいうと、「慶應義塾大学に学力で入った」ではなくて、「慶應義塾高等学校に学力で入った」ですね。
中学野球部の監督と、慶應高校の監督が、神奈川県立湘南高校の野球仲間だった縁で、中学の野球部監督に受験を勧められたとのこと。
受験を決めてからは毎日10時間、野球部を引退してからは最高1日で18時間の勉強をしたなんていう、凄まじい話を聞いたことがあります。
1995年は、高校2年ながら、まさかの神奈川県大会決勝に進出し惜しくも敗退しましたが、打順は1番で、ファースト・ピッチャーだったのをテレビ観戦した記憶あります。
当時は、AO入試を実施しておらず(開始されたのは、キャプテン漆畑・エース中林を擁して2005年春甲子園ベスト8になった、2003年入学組から。)、実力者がそれほどいない中(しいていえば、4番サード吉田翼)、快進撃でした。
大学でも、4年秋はリーグ優勝、同期の山本省吾・中村泰広、後輩の三木仁・長田秀一郎・湊川誠隆とともに、明治神宮大会優勝も経験、なかなかの実績を残しました。
大学の途中まで投手だっただけあって器用さにあふれていたのに加え、走攻守すべてにおいて、頭脳をフル回転させてのプレーぶり(巧みなベースランニング、守備での読みなど)は光っていました。
逆に、5ツール全部これといった突出した能力が無かったことが、レギュラー定着を阻んでしまった感じです。
しかし、2008年でのアジアシリーズMVPなど、野球通にはたまらない渋い活躍をしたのは忘れられません。
最後に、背番号が入団時は「30」で、途中から「10」に変わった感動的な秘話を一つ。
慶應高校時代、佐藤が1番ピッチャーだった時の同期に、入学して即4番サードになった吉田翼は、大学卒業後も明治安田生命で社会人野球を続けていましたが、出勤中にバイク事故で瀕死の重傷を負ってしまい、命は助かったものの選手生命を絶たれてしまいました。
佐藤は、「吉田の分も頑張る」という決意から、背番号を「10」に変更してもらったといいます。
私が高校受験の時に行きたかった高校の卒業生でいらっしゃるんですね。羨ましいです。
野球以外で高校からの入学組では、最近惜しくも逝去した金子哲雄氏や、「しょこたんのお父さま」中川勝彦さんや、女装家の「ミッツ・マングローブ」もですね。
「嵐」の櫻井翔君は幼稚舎からでしたけれども。
確か、喜多隆志は千葉ロッテのドラフト1位でプロ入りしたはずです。
もしかして、プロ断念して電通に就職した堤野健太郎のことでしょうか?
神奈川決勝を見ていらした方がこんなに多いとは思いませんでした。夏の地方大会の決勝戦はNHKの関東地区限定で放送されます。各地も同様だとは思いますが。
笑いながらベンチに戻ってきたりはOBの間では「不謹慎」の声も聞こえていました(笑)。
夏の甲子園に46年ぶりに復活するのは2008年に只野・田村の二枚エースに山崎錬を擁するチームで、東海大相模の3番太田泰示、4番角晃多を擁する強打に競り勝った時でした。
その試合も観戦していましたが、最後は東海大相模が延長戦で投手を使い果たし、太田を登板させたら決勝ホームランを打たれたという試合でしたね。
あとは背番号3番のピッチャー田村が「力道山の孫(末娘の息子)」ということばかり報道されていて、その印象が妙に残っています(笑)
大田からの決勝打は二番サードの福富が右越えに放った三塁打でした。続く三番セカンドの山崎錬が右越えにツーランを放ちました。大田の球速表示は140キロを超えていましたが矢張り野手の球でした。非力な福富が軽くバットを出して(と見えましたが本人は必死だったでしょう)ライトの頭上を越えて行きました。
同感です。打順も1~4番以外が定まらない中で多くの若手がその座を争ってい印象なんですが、若さゆえに勢いに乗れば怖いし、落ちればどこまでも落ち込んでいくし。そんなイメージの球団を上位に留めたのは控えに「大人」がいたからなんでしょうね。
となるとほとんどベテランの残らない、来年以降、吉と出るか凶と出るか・・。西口も石井も投手だし引っ張るイメージないですからね。
それはそれで楽しみです。
頑張れパリーグ!
私は、2008年の決勝は山崎錬のホームランが決勝点だと誤認していました。失礼いたしました。
確かあの試合の慶應高校バッテリーは、東海大相模高校の3番大田を敬遠して4番角で勝負、というのを数回やって、角が凡退というパターンでした。