昨日、「引退か」との報道が流れたが、早々に引退会見。力量的には衰えていたが、いざ、この日を迎えるとやはりショックである。
「命懸けでプレーして力を発揮するという気持ちでやってきたが、結果が出なくなった。命懸けのプレーも終わりを迎えた」と言うコメント。
松井秀喜は、高校時代から群を抜くスラッガーだった。そして、甲子園での明徳義塾による5打席連続敬遠で、一気にスターダムにのし上がった。
巨人にドラフト1位で入団。2年目には全試合出場を果たし20本塁打。以後、主力打者として活躍した。
同じ高卒の巨人4番打者だった王貞治と、本塁打、打点の量産ペースを見てみよう。

28歳の時点で松井は332本塁打、889打点。王貞治は356本塁打、906打点まさにアンタッチャブルな記録と思われた王の本塁打、打点記録に手が届きそうなペースだったことがわかる。
こんな打者は、以後現れていない。
しかし、松井秀喜は、28歳でMLBに挑戦する。
巨人は何としても移籍を阻止すべく手を尽くした。
松井はすでに左膝が悪く、人工芝の東京ドームでの守備が大きな負担になっていた。98年頃から松井はドームを天然芝に代えてほしいとの要望を度々球団に出した。
しかし経費、維持の問題から球団側は、なかなか踏み切れなかった。東京ドームが讀賣と資本関係がないこともあったとは思うが、巨人は人工芝に感触が近い「フィールドターフ」を導入した。このあたりに日本野球の限界を感じたとの話もある。
巨人はMLB挑戦の意向を持つ松井に、2000年オフに8年60億円、2001年オフに5年50億という巨額の年俸を提示した。しかし松井はそれを断ってそれぞれ1年契約で5億円、6.1億円で契約している。
このころから松井がFA宣言後、MLBに行くことは既定路線になりつつあった。
しかし、巨人はあきらめなかった。2002年オフ、原辰徳監督は松井に「俺たちで10連覇しよう」と説得。当時の土井誠球団代表は将来の監督の椅子をほのめかすなど、最大限の好待遇を約束した。長嶋茂雄終身名誉監督もたびたび松井と会食して翻意を促した。
さらには、渡邊恒雄オーナーはこのシーズン前に、アテネ五輪へのプロ野球を上げた参加をぶち上げ、「松井君には旗手を務めてもらう」と明言した。
巨人にFAでやってくる大物選手は数多かったが、巨人からFAで出ていく選手はいなかった。ましてや、主力選手がMLBに挑戦することもかつてなかった。
松井のMLB志向はイチローのMLB入り以前からのものだったが、イチローの2001年の移籍、大活躍が刺激になったことは想像に難くない。
2002年11月1日、ちょうど10年前、松井秀喜は東京、帝国ホテルで会見し、「僕のわがまま」「今は何を言っても裏切り者と言われるかも入れないが、『松井は(大リーグに)言って良かったな』と言われるようにしたい」
と言った。
まるで謝罪会見のような苦渋の表情を見せた松井。巨人の引き留めのプレッシャーがそれだけ大きかったことを表している。
この会見は、日本人の多くを松井ファンにした。
実力があり、ルールにのっとって移籍するのだから、「誰に遠慮することがあろうか」と考えることもできたが、松井は、周囲の人々の厚意、そしてファンの思いを慮って、誠意に満ちた会見を開いたのだ。
このウェットさ、日本人らしさこそが松井秀喜の魅力だった。


恐らく、このときに松井は「日本では2度と野球をしない」と固く決意したのだろう。
代理人アーン・テレムの手腕によって松井はニューヨーク・ヤンキース=NYYに入団したのだ。
※蛭間豊章記者の記事 必読
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。今日は 江川卓、高卒でプロ入りありせば

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
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松井秀喜は、高校時代から群を抜くスラッガーだった。そして、甲子園での明徳義塾による5打席連続敬遠で、一気にスターダムにのし上がった。
巨人にドラフト1位で入団。2年目には全試合出場を果たし20本塁打。以後、主力打者として活躍した。
同じ高卒の巨人4番打者だった王貞治と、本塁打、打点の量産ペースを見てみよう。

28歳の時点で松井は332本塁打、889打点。王貞治は356本塁打、906打点まさにアンタッチャブルな記録と思われた王の本塁打、打点記録に手が届きそうなペースだったことがわかる。
こんな打者は、以後現れていない。
しかし、松井秀喜は、28歳でMLBに挑戦する。
巨人は何としても移籍を阻止すべく手を尽くした。
松井はすでに左膝が悪く、人工芝の東京ドームでの守備が大きな負担になっていた。98年頃から松井はドームを天然芝に代えてほしいとの要望を度々球団に出した。
しかし経費、維持の問題から球団側は、なかなか踏み切れなかった。東京ドームが讀賣と資本関係がないこともあったとは思うが、巨人は人工芝に感触が近い「フィールドターフ」を導入した。このあたりに日本野球の限界を感じたとの話もある。
巨人はMLB挑戦の意向を持つ松井に、2000年オフに8年60億円、2001年オフに5年50億という巨額の年俸を提示した。しかし松井はそれを断ってそれぞれ1年契約で5億円、6.1億円で契約している。
このころから松井がFA宣言後、MLBに行くことは既定路線になりつつあった。
しかし、巨人はあきらめなかった。2002年オフ、原辰徳監督は松井に「俺たちで10連覇しよう」と説得。当時の土井誠球団代表は将来の監督の椅子をほのめかすなど、最大限の好待遇を約束した。長嶋茂雄終身名誉監督もたびたび松井と会食して翻意を促した。
さらには、渡邊恒雄オーナーはこのシーズン前に、アテネ五輪へのプロ野球を上げた参加をぶち上げ、「松井君には旗手を務めてもらう」と明言した。
巨人にFAでやってくる大物選手は数多かったが、巨人からFAで出ていく選手はいなかった。ましてや、主力選手がMLBに挑戦することもかつてなかった。
松井のMLB志向はイチローのMLB入り以前からのものだったが、イチローの2001年の移籍、大活躍が刺激になったことは想像に難くない。
2002年11月1日、ちょうど10年前、松井秀喜は東京、帝国ホテルで会見し、「僕のわがまま」「今は何を言っても裏切り者と言われるかも入れないが、『松井は(大リーグに)言って良かったな』と言われるようにしたい」
と言った。
まるで謝罪会見のような苦渋の表情を見せた松井。巨人の引き留めのプレッシャーがそれだけ大きかったことを表している。
この会見は、日本人の多くを松井ファンにした。
実力があり、ルールにのっとって移籍するのだから、「誰に遠慮することがあろうか」と考えることもできたが、松井は、周囲の人々の厚意、そしてファンの思いを慮って、誠意に満ちた会見を開いたのだ。
このウェットさ、日本人らしさこそが松井秀喜の魅力だった。
恐らく、このときに松井は「日本では2度と野球をしない」と固く決意したのだろう。
代理人アーン・テレムの手腕によって松井はニューヨーク・ヤンキース=NYYに入団したのだ。
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コメント
コメント一覧
昨晩に憶測的なニュース、すぐに引退発表。
とても潔いです。
第二の野球人生を楽しんで下さい。
20年間本当にお疲れ様でした。
左膝の怪我がなければまだ活躍できていたかもしれませんね。
イチローとはまた少し異なりますが、日本人の魂をMLBで発揮してくれたと思います。
お疲れ様でした。
彼のメジャー願望は、1999年のオフにヤンキースタジアムでの観戦がきっかけだと言われますが、もともと子供時代に阪神ファンだったあとに、メジャーリーグファンの野球仲間がいて、マクガイヤ&カンセコに憧れていたようです。
巨人に入ったからこそあそこまでの格がついたのと同時に、責任感強い彼には重いものを背負わせていた、会見で感じました。
松井秀喜のメジャーリーグ
行きは、巨人ブランドの終焉だったように感じます。
多分、メジャーでホームランを年間30本以上打てる日本人選手は松井秀喜以外に出ないでしょう。
一言、おつかれさま!
昨日、お父上のコメントが報道に載り、引退に向かっていることはうかがえましたが、それでもやはり本人の口からコメントが聞きたいと思っていたところに、早々と引退会見。あまりの急展開に驚いております。
同世代だけに、巨星が1つ墜ちたという印象です。
この人の存在価値は、イチローと並んで、右投げ左打ちを最大限極めたということでしょう。一方はその長所を最大限に活かした打撃でファンを湧かせ、一方はその不利だと言われる面を豪快に打ち払ったという点でファンを湧かせました。まさに歴史に残る選手だったと思います。
これ程の覚悟だったので、例え通用しなくてマイナー暮らしになったとしても帰国するという選択肢はなかったのでしょう
これから挑戦する選手たちもこれくらいの覚悟で渡米してほしいものですが、なかなかできる覚悟ではないですね
やはり松井は凄いと感心します
早すぎる引退で寂しい限りですが、お疲れ様でした
松井秀喜に限ってはそういうのとは無縁の存在ですね。
ここ最近のスキャンダルでイメージが悪くなった巨人を出て
メジャーに移籍したのは大正解ですよ。
まだやれそうですが、本人が決断したことですから仕方ないですね。
NPBデビューの年、ノムさんは松井を徹底マークしました。
試合でもよく見ましたが、なんでルーキーにそこまで?というくらいに。
今にして思えば、それだけの価値がある選手でした。
安心してヒールを任せられる選手から、日本が誇るスラッガーになった松井。
先日、サッカーのゴン中山の引退興行を兼ねたゲームがありましたが、松井の雄姿をスタジアムで一目見たいものです。
そういうのも照れ臭いのかな、この人は。
98年には左膝の重傷を負ったにもかかわらずフルシーズンセンターでプレーして本塁打王、打点王、リーグ最高OPSなど考えられないことを若くからしていました。
当時の巨人は巨人や長嶋監督に憧れたベテランの強打者を積極的に補強していましたが、彼らは全員ファーストかサードしか守れなかった。
松井は元々土と天然芝の甲子園のサードを希望していたらしいですが、当時の巨人では強打者でありながら若く走力があったために江藤や清原らが内野のコーナーを守る傍らセンターラインを任されていました。
結果的にはそれが選手寿命に大きく影響しました。
しかし、98年に膝を痛めながらそれ以降もずっと人工芝であれだけの大柄な選手が膝に負担が大きいセンターで起用されたというのは。当時の首脳陣は申し訳なく思っているかもしれませんね。
アメリカに渡ったのも膝が限界だった中で、チームがファーストの清原と再契約したため、これ以上人工芝で外野手は無理ということで決断したらしいですが、
もしも巨人で王貞治氏のように20代前半から一塁手専任で育成を受けていたらどうなっていたのかと考えてしまいます。
おそらく阪神ならば掛布の背番号を背負ってサードファーストで育成されていたでしょうし、巨人以外の多くの球団ならば内外野のコーナーを任されていたように思いますね。
人工芝でセンターラインは体重の軽い選手でないと寿命を縮めてしまいます。
当時の巨人としてはあれだけの打撃がある選手がセンターを守ってくれていたわけで非常にありがたかったのでしょうけど。
ルックスは良くないけど、紳士で真面目なスポーツマンのお手本の様な人でした。
こんなスーパースターはなかなか出てこないでしょう。
涙が出そうになりました。
「松井くん、髪短いほうがかっこええのに」(大阪のおばちゃん)
と言われてほんの少し、はにかんでいたこと。
東京ドームでセンター前ヒットで3塁ランナーを刺したこと。
濱中のHRで勝った試合の最終打者。1塁ゴロの球足の速かったこと。
記者会見終了後、拍手が自然に、、、お疲れさん。
同い年の大打者の引退はやはりショックです。
早速巨人が秋波を送ってますが、松井にはその枠に収まらない活動をして欲しいです。
それだけにひっそりと引退するのは寂しいです。
是非、日本で引退試合をしてほしいです。
巨人入団前は20年に一人の逸材とか言われながら、あれから20年経ってもポスト松井は出てきません。
入団1年目のキャンプでは吉村、駒田の主力打者よりもフリー打撃で飛距離が出ていたことに驚かされました。
彼が次ぎにメディアの前でどんな話をしてくれるか楽しみに待ちたいと思います。ただ、あのすさまじい打球がもう見れなくなるかと思うと残念です。
現在20代の自分にとって、幼い頃野球を見始めた頃の初めてのヒーローでしたから……
このような記事を書いて頂きありがとうございます。ファンとしては救われる気持ちです。
セカンドキャリアでは、そういうのを期待したいです。
NPBには天然芝回帰が必要だと思います
伝説の明徳戦で、敬遠と分かってるのに、最後までシッカリボールを見る姿は異常なほどカッコよかったです。
確かニュースステーションか何かで、「名門の怪物一年生」みたいな題名で特集されてましたね。
実家近くにあるホテル○園は、巨人と中日の関西遠征時の宿舎なんですが、バスで甲子園に向かう時、たまに見送ってました。
その中で頭一つ抜けてた松井の圧倒的体躯が印象深いです。
日本で引退セレモニーやってほしいですが、無理ですかね・・・
稀代のスラッガーに、心からお疲れ様と言いたいです。
自分が見てきた中では松井は最高の打者。
真の天才とは正に彼のような選手のことを言うのだと思います。
思い出を上げたらきりがありませんが、自分とプロ野球、MLBのかかわりは常に松井秀樹との接点を通して見てきたので、心に穴が開いてしまったような心境です。
球場では彼のホームランは何本も見ました。
伝説の横浜スタジアムでの場外ホームランも見ました。
その打球の凄まじさはまさに天才の名にふさわしいもので、彼のような選手はしばらく現れないでしょう。
今後の身の振り方を決める前にじっくり休んでほしいです。
野茂が開いたメジャーの扉を確かなものにしたのは彼ら二人だと思います。
ひとつの時代の終焉ですね。
寂しく思います。
駒田の場合は落合が来るんでの・・・。
敵前逃亡でいいんじゃないでしょうか!
一つの時代が終わってしまいました。
統一球でも3割50本打てる打者は現れるんでしょうかね。
お疲れさまでした。
高校時代は三塁手で,外野にコンバートとなったのは巨人入団後だったはず.
当時の巨人の三塁を守っていたのはベテランの原や岡崎が多かったはずで,コンバートの必要性は低かったと思うのですが,同年に長嶋一茂が移籍したこともあったかもしれませんね.
ドラフトでは中日も指名しており,もしくじを当てていれば三塁手で育てていたでしょう.当時の中日の三塁手は仁村,前原でしたから.
三塁手のままなら守備の負担も少なく.選手生命も伸びたかもしれません.とはいえ.外野守備も松井の良さの一つだったと思うので,どちらが良かったかは分かりませんが.