ボルチモア・オリオールズ=BAL一筋に18シーズン采配をとったアール・ウィーバーが死去した。81歳。同日、スタン・ミュージアルも死去したが、こちらは明日にしたい。
1930年生まれ。同年生まれにはハーベイ・キューン、ビル・スコウロン、バーン・ロウなどがいるが選手としてはレベルは遙かに下。日本でいえば荒川博、松田清らが同年。
プロ入りしたのはセントルイス・カーディナルスだったから、同日に死んだ10歳年上のミュージアルをはるかに仰ぎ見たはずだ。
内野手としてマイナーで14シーズン、1431試合も出場したが、AAAは4試合に出ただけ。

引退後はボルチモア傘下のマイナーリーグで指導者の修業をした。
61年には、B級のフォックスシティズ・フォクセズで指揮を執り、2位。翌年以降はエルミラ・パイオニアーズ(AからAAへ)に移り、監督として好成績を上げた。

当時のマイナー選手の顔ぶれを見ると、殿堂入りの大投手ジム・パーマー、主戦投手デーブ・マクナリー、内野の要マーク・ベランジャーなどMLBでウィーバーのチームを支えたフランチャイズプレイヤーがいる(マクナリーは最終年に移籍したが)。当時のMLBは、生え抜きで持っていたのだ。なお、のちに巨人に来るデイビー・ジョンソンもウィーバーの教え子だ。
66年には、AAAロチェスター・レッドウィングスの指揮を執る。前任者はダレル・ジョンソンだった。この年にいきなり優勝、67年も2位、この手腕を買われて68年はBALの一塁コーチとなった。
68年のシーズン途中、監督のハンク・バウアーが退任。バウアーの指名で監督を引き継いだ。
東西2地区に分かれた69年にアリーグチャンピオン、翌年にはシンシナティ・レッズを破ってワールド・チャンピオン。選手としては苦労したが、監督としては順風満帆だった。
以後も常に上位をキープ。
1978年の『米大リーグ26球団ガイド』では、ウィーバーは選手の実力を引きだす名人と評している。
確かに選手起用は巧みだったようだ。フランク、ブルックスの両ロビンソンを使いこなしたのは、ウィーバーの功績だろう。
同時に、パーマー、マクナリーという子飼いの大投手が長く働いたことも大きい。
ジム・パーマーとは仲が良くなかったと言われるが、親子喧嘩のようなものではなかったか。


82年の2位を最後に勇退するが、85年にジョー・オルトべリ、カル・リプケン(代理監督)の後を受けて監督に復帰。86年も采配を取ったが、76勝86敗と負け越し、7位となって辞任した。
ウィーバーは最終年を除いて、メジャー、マイナーの監督歴で負け越したことが無い。これは偉大な記録だ。
激情型で、退場は97回。何度も退場シーンがテレビに映った。私たちがMLB中継を見始めた頃の名物監督であり、懐かしい人だった。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。1981年門田博光の月間16本塁打

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プロ入りしたのはセントルイス・カーディナルスだったから、同日に死んだ10歳年上のミュージアルをはるかに仰ぎ見たはずだ。
内野手としてマイナーで14シーズン、1431試合も出場したが、AAAは4試合に出ただけ。

引退後はボルチモア傘下のマイナーリーグで指導者の修業をした。
61年には、B級のフォックスシティズ・フォクセズで指揮を執り、2位。翌年以降はエルミラ・パイオニアーズ(AからAAへ)に移り、監督として好成績を上げた。

当時のマイナー選手の顔ぶれを見ると、殿堂入りの大投手ジム・パーマー、主戦投手デーブ・マクナリー、内野の要マーク・ベランジャーなどMLBでウィーバーのチームを支えたフランチャイズプレイヤーがいる(マクナリーは最終年に移籍したが)。当時のMLBは、生え抜きで持っていたのだ。なお、のちに巨人に来るデイビー・ジョンソンもウィーバーの教え子だ。
66年には、AAAロチェスター・レッドウィングスの指揮を執る。前任者はダレル・ジョンソンだった。この年にいきなり優勝、67年も2位、この手腕を買われて68年はBALの一塁コーチとなった。
68年のシーズン途中、監督のハンク・バウアーが退任。バウアーの指名で監督を引き継いだ。
東西2地区に分かれた69年にアリーグチャンピオン、翌年にはシンシナティ・レッズを破ってワールド・チャンピオン。選手としては苦労したが、監督としては順風満帆だった。
以後も常に上位をキープ。
1978年の『米大リーグ26球団ガイド』では、ウィーバーは選手の実力を引きだす名人と評している。
確かに選手起用は巧みだったようだ。フランク、ブルックスの両ロビンソンを使いこなしたのは、ウィーバーの功績だろう。
同時に、パーマー、マクナリーという子飼いの大投手が長く働いたことも大きい。
ジム・パーマーとは仲が良くなかったと言われるが、親子喧嘩のようなものではなかったか。
82年の2位を最後に勇退するが、85年にジョー・オルトべリ、カル・リプケン(代理監督)の後を受けて監督に復帰。86年も采配を取ったが、76勝86敗と負け越し、7位となって辞任した。
ウィーバーは最終年を除いて、メジャー、マイナーの監督歴で負け越したことが無い。これは偉大な記録だ。
激情型で、退場は97回。何度も退場シーンがテレビに映った。私たちがMLB中継を見始めた頃の名物監督であり、懐かしい人だった。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。1981年門田博光の月間16本塁打
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コメント
コメント一覧
B・ロビンソンの膝をついたままので一塁へのスナップスローも驚きました。一番印象に残っているチームでした。
全盛期のオリオールズを見られたなんてうらやましい。
ウィーバー監督は3ラン本塁打がお好きだったようですが、両ロビンソン、パウエルが支えていたのでしょうね。
私が日米野球でMLBを認識したのは74年のメッツから。MLBってあまり強くないと子供心に思ったのですが、中学時代にやってきたレッズにはびっくりさせられました。
BALは私はテレビで見たのを辛うじて覚えています。
このときのオリオールズを見られた方にお聞きしたいのですが、パウエルという打者ってどんなバッターだったのでしょうか。ものすごい迫力があったとか、噂は聞くのですがSTATSは飛び抜けているわけでもなく殿堂にも入っていない。
でも、全盛期を迎えつつあった王さんより凄かったなんて話を聞くと見てみたかったと思っています。
当時の記憶だけで書きます。一番印象的だったのはパット・ドブソンが富山でやったノーヒット・ノーランでした。マイク・クエイヤーのスクリューボールは日本野球にも大きな影響を与えています。日本人がスクリューボールを認識したのはこの時が初めてのことです。
71年のオリオールズを知るにはベースボール・マガジン社「B.B.MOOK」から出ている「日米野球交流史」(平成16年12月5日発行)が比較的入手しやすい資料になるのではないでしょうか。アマゾンで1,500円程で入手できます。
ブーグ・パウエルと王貞治が並んでいる写真が掲載されていますが、百聞は一見に如かず、この写真を見れば王とパウエルの体格差が理解できます。
当時19歳です。(年がばれますね・・)
前年のWSであのベンチ擁するビッグレッドマシーンを人間掃除機?と言われたB・ロビンソン一人の力でスイープしたので注目していました。
パウエルが打席に立つとアメリカ人の観客が「ブー、ブー」という彼の愛称で声援というか、冷やかしていました。
当時の来日チームは大概夫人同伴で来ており、旦那は試合、奥さまは観光というパターンでパウエルの奥さまは小柄な方だったと記憶しております。
私もオリオールズファンですが、私が見出したのは70年代後半だったかと思います。ピッチャーにはフラナガン、ストーン、マルティネスなどが、打者にはバンブリー、シングルトン、マレーなどなど。そしてキャッチャーのデンプシー(雨で中断中のホームヘッドスライディングは彼で初めてみたと思います)。リプケンjrはまだまだ新人でした。ピッツバーグとのWSが妙に記憶に残っています。
そして不思議なことに今でも覚えているのは背番号のフォントが日本のチームと違い妙にカッコよかったこと(当時は阪急など一部のチームを除いて高校野球のような字体でした。今も巨人などはそうですね)。カクカクしたブロック体になぜか憧れました。
ウィーバー氏の訃報に触れ当時を思い出しました。
日本のプロ野球がまるで歯がたたなかったとは言っても、チーム成績を見ると他の大リーグのチームだってそうそう勝てないほどの強さだったのだから、それは仕方がないのかも(笑)。
今みたいに選手の移動が激しいと、語り草になるような完成度の高いチームを作り上げるのはなかなか難しいかもしれないですね。
1984年に再来日した時は、大リーグ平均レベルのチームといった感じだったけど、長打力を備えた新時代の遊撃手として話題だったカル・リプケンの格好よさや、捕手が座ったままで送球する腕っ節の強さなどは、やはり日本の野球では見られないものがありました。
日米野球は負担が大きいからやりたくないという選手会の意見を聴くと、日本の選手たちもずいぶん偉くなったものという素朴な感想も湧いてきます。