昨日、日本に帰国中のダルビッシュが、アンダーアーマーの日本総代理店ドームの新春パーティーにゲスト出演し、トークショーを行ったという。これ、聞きたかった。どこかで、公開してくれないかと思う。
どうやら、通信社の配信記事を使った新聞社、スポーツ新聞社が多かったようで、同じ記事がたくさん載っている。寄せ集める。青色が記事からの引用。
司会役を務めた社長が緊張のあまりしどろもどろになると、笑いながら「何を言っているか全くわからないですよ」と軽妙なツッコミ。最後には“ダメ出し”を振られて「社長がこれで大丈夫ですか?」と切り返し、招待客ら約1000人を爆笑させていた。
確かに、ダルビッシュの摩天楼みたいなすごい肉体を目の当たりにして、上がらない一般人はそれほどいないだろう。ドームの安田秀一社長はバリバリのアスリート上がりだが、ダルには気圧されたのだろう。
旧態依然とした練習方法が根強く残っていることに「(選手個々の)持っているものはすごくいいけど、昔からの固定観念が縛っちゃって力を出し切れていない」と批判。スポーツをする子どもを持つ保護者にも「自分の理想を押しつけるのではなく、自由にやらせるよう指導することが子どもの成長につながる」と持論を展開した。
多くのメディアが注目したのは、日本のスポーツ界の「旧態依然とした練習方法」についての発言だ。ちょうど、桜宮高校の体罰、自殺事件が話題となっているときでもあり、ダルの見解が注目されたのだ。
野球界は、長きにわたって非科学的で、精神主義的な練習法がまかり通っていた。
「練習中は水を飲んではいけない」
「走り込んで下半身に筋肉をつけるのはいいが、マッチョになってはいけない」
「水泳は肩を冷やすからだめ」
「利き腕では箸よりも重たいものをもってはいけない」
さらには
「投手の地肩は投げ込んで作る」
野球選手たちは、科学的根拠もなく、効果測定もされていないこうした「教え」を金科玉条のようにして練習に打ち込んできた。
これによって(こんな練習をしたにもかかわらず)、成功をおさめた選手もいるが、肩や体を痛めて野球を断念した選手も多い。
ダルビッシュはこうした「固定観念」が残っていることを憂慮したのだ。
しかし、より重要なことは「練習法」ではなく、「練習に向き合う姿勢」だろう。親や指導者が言うことをそのまま聞いて練習するのでは、一定のところまでは行けても、トップクラスにはなれない。
指導者は選手に練習法を押し付けない、そして選手が自分で練習法を見つけ出すべきだと言っているのだ。
桜宮高校の体育科のように、顧問が選手を牛や馬のように叩いたり、恫喝して言うことを聞かせるのとは、対極の考え方がここにある。


しかし「自由にやらせる」という話を聴くと、大人たちは「甘やかせることにつながる」とか「高いレベルが維持できない」という危惧を抱くのではないか。
しかしダルビッシュはそういう低レベルの話をしているのではないのだ。
定評あるトレーニング論ではストイックな姿勢を貫くことに、「試合でパフォーマンスを出すために、大切な過程の1つ」とし、「プロである以上、甘えや妥協は許されない」と信条を語った。
要するに試合で出すべき力、パフォーマンスのために、自分自身で練習計画を立てて、一切の妥協をせずにそれを実行せよと言っているのだ。
「先生に言われたから」「やらないと叩かれるから」という次元とは、段違いだ。こういう意識を持たなければ、MLBなど世界に通用する技術も肉体も作ることはできないのだ。
桜宮高校体育科のようなスポーツ専門校は、率先してダルビッシュのようなトップアスリートが実践している練習法、さらにはその背景にある“アスリートの思想”を取り入れるべきだろう。
マスコミはダルの意見を紹介したあと「持論を展開した」と書いた。
ダルが勝手に言っているだけで私たちは「正しいとは言ってませんよ」と逃げを打っているわけだ。こうした姿勢も「古い固定観念」の一つだと思う。
折しも、元プロ野球選手の高校野球指導者への門戸が広く開かれた。
日本のプロ野球界は、現役時代の実績もさることながら、ダルビッシュ同様、新しい練習法とその“思想”を知っている元選手を高校に送り込むべきである。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。本日は中山孝一

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
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司会役を務めた社長が緊張のあまりしどろもどろになると、笑いながら「何を言っているか全くわからないですよ」と軽妙なツッコミ。最後には“ダメ出し”を振られて「社長がこれで大丈夫ですか?」と切り返し、招待客ら約1000人を爆笑させていた。
確かに、ダルビッシュの摩天楼みたいなすごい肉体を目の当たりにして、上がらない一般人はそれほどいないだろう。ドームの安田秀一社長はバリバリのアスリート上がりだが、ダルには気圧されたのだろう。
旧態依然とした練習方法が根強く残っていることに「(選手個々の)持っているものはすごくいいけど、昔からの固定観念が縛っちゃって力を出し切れていない」と批判。スポーツをする子どもを持つ保護者にも「自分の理想を押しつけるのではなく、自由にやらせるよう指導することが子どもの成長につながる」と持論を展開した。
多くのメディアが注目したのは、日本のスポーツ界の「旧態依然とした練習方法」についての発言だ。ちょうど、桜宮高校の体罰、自殺事件が話題となっているときでもあり、ダルの見解が注目されたのだ。
野球界は、長きにわたって非科学的で、精神主義的な練習法がまかり通っていた。
「練習中は水を飲んではいけない」
「走り込んで下半身に筋肉をつけるのはいいが、マッチョになってはいけない」
「水泳は肩を冷やすからだめ」
「利き腕では箸よりも重たいものをもってはいけない」
さらには
「投手の地肩は投げ込んで作る」
野球選手たちは、科学的根拠もなく、効果測定もされていないこうした「教え」を金科玉条のようにして練習に打ち込んできた。
これによって(こんな練習をしたにもかかわらず)、成功をおさめた選手もいるが、肩や体を痛めて野球を断念した選手も多い。
ダルビッシュはこうした「固定観念」が残っていることを憂慮したのだ。
しかし、より重要なことは「練習法」ではなく、「練習に向き合う姿勢」だろう。親や指導者が言うことをそのまま聞いて練習するのでは、一定のところまでは行けても、トップクラスにはなれない。
指導者は選手に練習法を押し付けない、そして選手が自分で練習法を見つけ出すべきだと言っているのだ。
桜宮高校の体育科のように、顧問が選手を牛や馬のように叩いたり、恫喝して言うことを聞かせるのとは、対極の考え方がここにある。
しかし「自由にやらせる」という話を聴くと、大人たちは「甘やかせることにつながる」とか「高いレベルが維持できない」という危惧を抱くのではないか。
しかしダルビッシュはそういう低レベルの話をしているのではないのだ。
定評あるトレーニング論ではストイックな姿勢を貫くことに、「試合でパフォーマンスを出すために、大切な過程の1つ」とし、「プロである以上、甘えや妥協は許されない」と信条を語った。
要するに試合で出すべき力、パフォーマンスのために、自分自身で練習計画を立てて、一切の妥協をせずにそれを実行せよと言っているのだ。
「先生に言われたから」「やらないと叩かれるから」という次元とは、段違いだ。こういう意識を持たなければ、MLBなど世界に通用する技術も肉体も作ることはできないのだ。
桜宮高校体育科のようなスポーツ専門校は、率先してダルビッシュのようなトップアスリートが実践している練習法、さらにはその背景にある“アスリートの思想”を取り入れるべきだろう。
マスコミはダルの意見を紹介したあと「持論を展開した」と書いた。
ダルが勝手に言っているだけで私たちは「正しいとは言ってませんよ」と逃げを打っているわけだ。こうした姿勢も「古い固定観念」の一つだと思う。
折しも、元プロ野球選手の高校野球指導者への門戸が広く開かれた。
日本のプロ野球界は、現役時代の実績もさることながら、ダルビッシュ同様、新しい練習法とその“思想”を知っている元選手を高校に送り込むべきである。
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コメント
コメント一覧
私の現役当時は、マイナースポーツでしたから、厳しい上下関係や体罰とは無縁のイメージがあるのか(髪型も自由でしたし)、野球部からの「避難組」もけっこういました。
野球界ではMLBの有力選手になったダルがそこまで言ってくれるのに、高校バスケはどうしてこんなことになってしまったのか。二重の意味でショックです。
NPB及び高校野球を始めとする日本の野球環境においてはまだまだダルビッシュの言う「自由型個性尊重指導」を実践出来る環境・指導者が揃っていないんでしょうねぇ。
特に学校教育と密接な「部活動」においては指導者は教育の名の下に自らの指導方針を押し付けたがる傾向があり(と言うかそれしか知らないから)、「自由型個性尊重指導」と相反し易いと考えます。
また現状では「部活動」と言う学校教育の場において「自由型個性尊重指導」を実践しながら教育者として指導・躾という課題をこなせる経験やノウハウが指導者側には全く備わっていないと思います。
>>元プロ野球選手の高校野球指導者への門戸が広く開かれた。
歴史的な改定ですが、同時に非常に重要な使命を元プロは託されましたよね。
求められるのは野球指導者としての技術だけでなく、教育者として人間育成に寄り添わなければならないという非常に高いハードルです。
ただこの歴史的な転換期が後に高校野球にとって素晴らしい改革だったと語れる様になれば、ダルビッシュの言う「固定観念」が無くなっているのではないでしょうか。
その為にはNPBは全精力を持って元プロの指導者活動をバックアップして欲しいです。
(現状のNPBの我関せずの姿勢は何か起こってからの「そら、みたことか!」待ちにしか見えません、それが心配です)
この表現、ホンマイラっとします。
誰に気を使っているのか・・・。
ダルビッシュやイチローが指導者になったら日本の野球が大きく変わる・・・とええなぁと思います。
その年代の生徒にとって、厳しくしない教師・指導者=ナメてかかれるぜ、ってことなんですから。
まあ、意識の高い学生ならともかく、昨今の高校生は牛馬並み、いやそれ以下ですからね。
先日、バレー部員と思しき高校生が、電車の網棚に登って、横になってた光景を見ましたが、これ見ると牛馬以下かな、と思ってしまいました。
何か「自由」=「厳しくない」と誤解されている方もいるようですが、「自由」とはプレーの方法論での話であって、規律がないとか、そういうのとは別次元の話でしょう。
MLBの監督で体罰をするような監督、コーチは皆無だと思いますが、例えばチームの集合時間に遅刻した選手には、やはり規律を乱したということで罰金が科せられるでしょう。それが規律というものです。規律の有無は、スポーツの技術的指導とは全く別次元の話なんです。
「59」のほうでもコメントしたのですが、体罰の是非を論じるに当たって、このような規律を遵守させるための「しつけ」と「技術的指導」とを混同するから的外れな意見が出てくるのでしょうが、「自由」が与えられたことがプレーをいい加減にすることにつながるのなら、結果として敗北という形で自分(や自分のチーム)に跳ね返ってくるわけです。
ただ、今の子供たちにそのような「自由」を与えたところで一概に幸せになるかどうかは、ご指摘の通り別の話です。これは長年の日本の一般教育の問題でもありますし、プロのレベルでも上手くいかないことは、サッカーの日本代表が2006年に証明してくれています。
それこそダルビッシュやイチローのようなスター選手の発言が、内容を問わず無条件で全て正しいと思う事こそ危険だと思います。
発言者に対する先入観を取り払い、発言の内容を正しく評価できる能力を身につけることが大切ではないでしょうか?
※もちろんこのイベントでの発言云々ではなく、あくまで一般論としてです。
*そういえばfreeという単語には「何もない」という意味もあった
閑話休題、一つ前の昔を思えばかなり変わってきているのも事実ですね。
今だったら、西脇工を全国的強豪にした渡辺公二氏の最初のような指導したら、確実に「鬼畜顧問」の烙印は押されますからね。
野球で言えば、横浜高監督の渡辺元智氏などは「今の子供に体罰は逆効果」と言っております。
ただそんな彼も、「若い時には保護者の方の求めに対し、厳しくした面がある」と。
裏返せば、保護者もそういう指導を求めていた面はあるのかもしれません。
下手をすると、指導者よりも我々一般社会のほうが遅れているのではないか?と思ったり。
2chでさえ、箱根駅伝でダメだったチームについて「指導が温いんじゃねーの?」と書かれている位ですから。
>哲様
そりゃあ仕方ないです。
マスコミに入った人間でスポーツやっていたのは、その当時受けた指導が基準ですから。
その上、幸か不幸か人間は頭で覚えたものより体で覚えたものが定着するように出来ている。
仰る通りだと思います。
他人の意見を鵜呑みにするのは良くない。
今回の話でいけば、ダルビッシュのやり方は向上心と克己心が強い彼に合っているのでしょうが、それ以外の人すべてがそんなに強いわけではありませんしね。
いくらでもいるでしょ、さぼって才能を使い潰してる選手。
そういう選手には、強制的にやらせるのも一つの手だと思います。
やらされているうちに、何かに気づいて目覚めるかもしれない。
もちろん、さぼっている過程で目覚める選手もいるでしょうけれど(ホントか?)
今回の体罰騒動で厳しい指導がやたらクローズアップされてますが、
その厳しい指導の中でも高校野球の不祥事の数の多さは異常なもの。
美徳を求める以前に人間としてやるべき最低限のことも徹底されてない状況を忘れている人が多すぎるように感じるのは私だけではないと思うんですが。
それだから反発されるということがわかってない人が多いんですね。
思春期の子供は迷っています。年が上だからってその人が正しくてえらいなんて認めませんよ。
年功序列で厳格、そんな時代錯誤な野球部の空気が廃されることを祈っています。