大勝の記録と対で大敗の記録も載せておきたい。
MLBではシーズン最多敗はジョン・コールマンの48敗だがこれは1883年の記録。20世紀以降では1905年のヴィック・ウィリスの29敗。ウィリスはVictorという名前だが、最多敗が2度もある。通算249勝205敗で没後半世紀近くたった95年に殿堂入りしている。
日本も同じ29敗が最多。偶然ともいえようが「30敗はいくらなんでも」という意識が働いたのかもしれない。ワースト30傑。



1940年と言えば太平洋戦争の前年。すでに日中戦争が泥沼化し、職業野球を取り巻く環境は暗雲が垂れ込めようとしていた。中山正嘉は松山商業時代に千葉茂、筒井修などと甲子園で優勝をした人気投手。しかしこの年の金鯱軍は8人しか投手がいなかった。中山が18勝29敗、古谷倉之助が9勝19敗、内藤幸三が4勝10敗。とにかく負けまくったのだ。中山は先発と救援を掛け持ちしていたが、リリーフでもよく負けた。
以下の選手も1リーグ時代、2リーグ分立初期の弱小チームが多い。しかし子細に見れば、NPB最多勝の金田正一、秋山登、長谷川良平、米田哲也などの名前がある。昔のエースは勝っても負けても投げ続けたのだ。
1970年代に入ると投手の数が増え、分業の考え方が普及して20敗以上の投手はほとんどいなくなった。唯一の例外が東尾修。この投手は72年に25敗、77年に20敗している。東尾は2度の最多勝を取っているが、5度も最多敗を記録している。とにかくよく投げ、よく負けた。昔の大エースの面影を持った最後の投手だと言えよう。
20敗以上は延べ90人の投手が記録している。回数のランキング。

このリストを見ると、20敗は一人でチームを背負った大エースの勲章とも思えてくる。77年の東尾を最後に、20敗投手は生まれていない。これもアンタッチャブルだろう。古き良き昭和の野球の遺物だ。
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日本も同じ29敗が最多。偶然ともいえようが「30敗はいくらなんでも」という意識が働いたのかもしれない。ワースト30傑。

1940年と言えば太平洋戦争の前年。すでに日中戦争が泥沼化し、職業野球を取り巻く環境は暗雲が垂れ込めようとしていた。中山正嘉は松山商業時代に千葉茂、筒井修などと甲子園で優勝をした人気投手。しかしこの年の金鯱軍は8人しか投手がいなかった。中山が18勝29敗、古谷倉之助が9勝19敗、内藤幸三が4勝10敗。とにかく負けまくったのだ。中山は先発と救援を掛け持ちしていたが、リリーフでもよく負けた。
以下の選手も1リーグ時代、2リーグ分立初期の弱小チームが多い。しかし子細に見れば、NPB最多勝の金田正一、秋山登、長谷川良平、米田哲也などの名前がある。昔のエースは勝っても負けても投げ続けたのだ。
1970年代に入ると投手の数が増え、分業の考え方が普及して20敗以上の投手はほとんどいなくなった。唯一の例外が東尾修。この投手は72年に25敗、77年に20敗している。東尾は2度の最多勝を取っているが、5度も最多敗を記録している。とにかくよく投げ、よく負けた。昔の大エースの面影を持った最後の投手だと言えよう。
20敗以上は延べ90人の投手が記録している。回数のランキング。

このリストを見ると、20敗は一人でチームを背負った大エースの勲章とも思えてくる。77年の東尾を最後に、20敗投手は生まれていない。これもアンタッチャブルだろう。古き良き昭和の野球の遺物だ。
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コメント
コメント一覧
当時の解説で、「カープの野球は最高」と嫌味たらしく巨人を小ばかにしていたのが思い出されます。本人は苦労人だったのですね。
3位(1回)4位(3回)5位(3回)6位(6回)通算667勝921敗102分 勝率.420
常勝球団唯一の暗黒期が自身の全盛期とぴったり重なっているわけで、負けが込むのも道理です
おかげで活躍の機会も早くから多かったとも言えますが、生まれた時代が
前後どちらでもいいから、もう少しずれていたら通算成績も変わっていたかもしれません。
貢献度でいえば間違いなく永久欠番に値すると思うのですが
麻雀賭博を初めとした素行の悪さが上層部に問題視されたんでしょうかね。
監督としてカムバックしリーグ優勝、松坂を口説き落とすのにも一役買ったわけですし
何かしらの形で報いてあげて欲しいものです。
どうしてこんなことに…
主力にもなれないようでは投げられていないですから。
200勝以上で負け越している梶本さんが1度しか20敗してないのも意外ですね。
東尾さんが20敗した時代は、西鉄最後の年と太平洋クラブ最後の年のライオンズですね。何から何までガタが来ていたチームで投げ続けていたのではないでしょうか。
> 東尾さんが20敗した時代は、西鉄最後の年と太平洋クラブ最後の年のライオンズですね。何から何までガタが来ていたチームで投げ続けていたのではないでしょうか。
西鉄から西武まで、チームは激動でしたが、東尾修は一度も移籍を経験しないフランチャイズプレイヤーなんですね。
加藤投手はこの年の新人投手で前年巨人から入団を誘われていたものの、出番が多そうな別の球団に入りたいと当時としては異例の要望を出して西鉄に入団。で成績は17勝16敗(新人王)。
西鉄はこの年47勝しかできず当然のごとく最下位。この年限りで球団は消滅とあいなったわけですからもし加藤投手がいなかったら、東尾投手にもっと負荷がかかり、もっと負け数が増えていたかもしれませんね。
ちなみに東尾投手の1977年シーズン20敗(11勝20敗4セーブ)の時の所属球団はクラウンライターライオンズですよ。
追伸=毎回、楽しい数字をありがとうございます。
お読みいただき、ありがとうございます。
私が初めて東尾の試合を見たのは1971年、巨人とのオープン戦が関東(当時は千葉県市川市に住んでいました)でも中継された時です。
黒い霧事件をきっかけに西鉄ファンとなりましたが1970年は西鉄の試合の画像は見た記憶がありません。
当時は河原がエースで頭数が足りずに東尾もローテーションピッチャーとなりました。初めて見た画像の印象は、あまりにもフォームが素直で綺麗過ぎて「これでプロで通用するのかよー」でした。後年の打者を威圧するようなピッチングフォームとは全く違っていました。
あの素直すぎるピッチングフォームでは負け数がかさむのも当然でしょう。しかしこの時の経験を生かして後の250勝投手に成長していく訳です。
数字で語る意義は十分承知しているつもりですが、野球というスポーツにおいては、数字だけでは語れない部分も数多くあると考えています。