syokuyakyuさんは、早くも気をもんでおられたが、阪神の三塁手。これは悩ましい。名門球団は同じポジションに良い選手が重なるものなのだ。


藤村富美男は、NPB発足の年にプロ野球に入り、長嶋茂雄が入団した年まで現役だった(57年は一時引退していたが)。澤村栄治とは同学年。まさにプロ野球の伝統を体現する存在だった。戦前の野球は“神代の時代”というべきで、それ以後とは大きく環境が異なっていたが、そういう時代を織り込みながら、トータルで打率3割、OPS.872。戦争がなく、23年間ずっと試合に出続けたとすれば、川上哲治よりも早く2000本安打に到達していたに違いない。
藤村にあこがれて三塁手になった長嶋茂雄、そして長嶋にあこがれた掛布雅之。チームこそ違え、三塁手の正系はこうしてつながったのだ。
掛布雅之。この選手は王貞治に陰りが見え、山本浩二が日の出の勢いだった時期に彗星のように現れて、リーグ最強打者の名を争った。無名、小さな体で毎年のようにタイトル争いに絡んだ。守備も素晴らしかった。無理がたたったか、85年の優勝をピークに急速に衰えたが、阪神の至宝というべき選手だった。
早くに殿堂入り表彰をしていれば、彼の今の経済的窮状は、少しは緩和されたのではないかとも思う。その値打ちのあった選手だ。
そして景浦将。プロ野球がもっとも貧しかった黎明期に現役時代を終えたにも拘わらず、この数字。今さらながらに、傑出した存在だと思う。
で、結論としてはプロ野球の礎を創った功績に勝るものはないので、藤村富美男。
このままいくと、田淵も掛布も藤田平もベスト9になりそうにない。悩ましい。
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藤村富美男は、NPB発足の年にプロ野球に入り、長嶋茂雄が入団した年まで現役だった(57年は一時引退していたが)。澤村栄治とは同学年。まさにプロ野球の伝統を体現する存在だった。戦前の野球は“神代の時代”というべきで、それ以後とは大きく環境が異なっていたが、そういう時代を織り込みながら、トータルで打率3割、OPS.872。戦争がなく、23年間ずっと試合に出続けたとすれば、川上哲治よりも早く2000本安打に到達していたに違いない。
藤村にあこがれて三塁手になった長嶋茂雄、そして長嶋にあこがれた掛布雅之。チームこそ違え、三塁手の正系はこうしてつながったのだ。
掛布雅之。この選手は王貞治に陰りが見え、山本浩二が日の出の勢いだった時期に彗星のように現れて、リーグ最強打者の名を争った。無名、小さな体で毎年のようにタイトル争いに絡んだ。守備も素晴らしかった。無理がたたったか、85年の優勝をピークに急速に衰えたが、阪神の至宝というべき選手だった。
早くに殿堂入り表彰をしていれば、彼の今の経済的窮状は、少しは緩和されたのではないかとも思う。その値打ちのあった選手だ。
そして景浦将。プロ野球がもっとも貧しかった黎明期に現役時代を終えたにも拘わらず、この数字。今さらながらに、傑出した存在だと思う。
で、結論としてはプロ野球の礎を創った功績に勝るものはないので、藤村富美男。
このままいくと、田淵も掛布も藤田平もベスト9になりそうにない。悩ましい。
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コメント
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どちらも甲乙付けがたいのならば、伝説のスラッガー、景浦でどうでしょうか。
戦火に倒れなければ、背番号6は彼で永久欠番だったはずです
(その時は藤田、和田、金本は5でもつけていたのでしょう)。
掛布をセカンドに回してしまえば藤村富美男で決まりですが伊賀上良平、三宅秀史も名サードです。
本題の藤村・掛布問題に移ります。日本野球史を語る上で、戦前の澤村栄治、景浦将と共に、戦後復興期の川上哲治、大下弘、藤村富美男を欠かすことはできません。
掛布の時代は時代が幸せになり過ぎていました。掛布がいなくても原辰徳、落合博満、江川卓がおり、すぐ後に清原、桑田が出てきます。
私の出身地の地元・習志野高校時代から見てきた掛布を心情的には推したいのですが、客観的、野球史的に見ると藤村富美男にせざるを得ないと思います。
掛布は大アーチの印象がない。やはり中距離ヒッター。
また戦前組は、景浦は右翼手。三塁は伊賀上。
景浦は強肩で森徹タイプだったのでしょうか。
伊賀上を藤村よりもリストの上に載せるべきではないでしょうか。
彼の方が正三塁手としては先輩です。
1リーグ時代から活躍している選手で、終身打率3割を達成したのは、川上・大下・藤村の三人だけですか。戦前からの活躍に絞れば、川上と藤村のみ。そして長打力も発揮したのだから、これは確かに価値は高いですね。藤村がいたから、タイガースは浮き沈みはあっても、人気球団であり続けたなんていう話も。
掛布は、リーグ全体の本塁打や打率がインフレ状態の時期に活躍して、その中でも飛距離が短い本塁打が多い代表選手だった。猛打を発揮する選手が多い状況に対抗しようとして、打撃スタイルを年々崩していったようにも見えますね。中距離打者に徹していれば、どんな通算成績を残していたんだろうと、ちょっと想像してしまいます。
プロ野球と打者が置かれた環境が、まるで正反対の時期に活躍した二人なので比較しづらいけど、突出度や貢献度重視だと藤村になりそうですね。
ベストナインとあわせて是非監督も選んで頂けませんでしょうか。私には、よっさんが確かに強烈に記憶には残りますが、やはり、おい!テツ!!、のオヤジさん です。
藤村さんであることには異論はないのですが(何といっても戦前の圧倒的に投手有利な時期を含んでの成績ですから)、少し掛布さんに厳しい意見が多いように思うので、一言言わせてください。
私は掛布さんの現役時代しか知りませんが、江川さんとの対談の中では、クリーンアップを打つようになって本塁打を周りから期待されるようになったので、小柄な体で相当無理をしていた旨を語っておられます。また、高卒ですぐに1軍で使われるようになったので、体作りが十分でなかった旨も述べておられました。
掛布さんのご自身での認識も、皆さん仰るように中距離打者だったようです。右投げ左打ちで飛距離を伸ばすのには不適であり、しかも左打者にはそもそも不利な甲子園というハンディの中で、本塁打王3回というのはよく頑張ったのではないでしょうか。
実は、外野に人がいないのは予想されます(センターは新庄か赤星、あとは2008年までの金本ぐらい)ので、景浦は外野に回したほうがいいのかもしれませんね。
掛布は、田渕放出後にホームランを要求されるようになりました。これが引退を早めたのかもしれませんし。
戦前のボールの飛ばない時期も、戦後の飛びすぎるボールの時期もありますが、やはり藤村兄ということになるのでしょうか。
そりゃ、戦前はレフトを守っていたこともあったのでしょうけれど。
されど、144試合換算で最も安打数が多いのが新井兄というのは意外ですね。
チキンだ併殺王だと言われてますが、いかにどうでもいいところでヒット放ってるか判りますね。