落語家と一緒に生活する日々を2年で卒業して、広告の世界に入ったのは25歳になる年だった。会社には年下の先輩女性コピーライターがいて、ラジカセからは飽きもせず吉川晃司の「モニカ」が流れていた。
先輩コピーライター女史は男っぽい人だったが、当時から吉川晃司はそういうやや色気に乏しい(失礼、彼女は後年ミステリー作家になった)女性に好まれていた。

率直に言って、吉川と言う歌い手がそれからどんな人生を送ったのかはよく知らない。
しかし、最近では「八重の桜」で西郷隆盛を演じて、意外なほどに「ごつい」たたずまいを好演しているのが目立った。

昨日、8月6日の朝、広島での平和祈念式典では、例年通り気温がうなぎ上りになろうとする中、多くの人が参列をして献花が行われた。オリバー・ストーンが参列するなど、少しは変化があったのだろうが、全体としては毎年見慣れた光景が続いた。
しかし安倍晋三首相の献辞を聞きながら、私は「広島の日」が、猛暑の中劣化し、腐臭を放ちつつあるような感じがした。
安倍首相は「円安誘導」によって日本人に俄にあぶく銭をつかませたことで、国民の支持を得た。その支持を背景に、自分が望む姿に日本を変えようとしている。
「広島の日」は「核の恐怖」を日本人が再確認し、世界に核廃絶をアピールすべき日のはずだが、そのクライマックスで献辞をしたのは「再武装」「原子力再稼働」「原子力輸出」を推進しようとする宰相だった。

しかし、世間はそれに違和感を抱いていないかのようだ。力があるもの、勢いのあるものに便乗しよう、阿ろうと言う空気が、日本中に充満している。

「あまちゃん」の放送は、これで後ろに追いやられた。見られないままに出勤した人も多かっただろう。

その日の夕方、マツダスタジアムで行われた広島、阪神戦の前に、吉川晃司が始球式でマウンドに上がった。背番号は8.6。肩幅が広く、腰がぐっとしまっている。
グレーの頭髪を除けば現役の投手と見まごうような偉丈夫だ。
「安芸広島に立つ吉川」というだけで、すでに歴史絵巻である。
投球フォームは山内泰幸を思わせるぎごちないものだったが、球はやや高めにしっかりミットに収まった。球速111km/h。

5回終了時、被爆したアップライトピアノの前に吉川が立つ。若者たちの行列が出迎える。吉川は行列にもスタンドにも媚を売らず、ねめつけるように周囲をずらっと見渡した。
そして「イマジン」を歌いだした。
愛想のない、いっそ投げやりのような歌い方だが、日本語で「放射能要らない」「被ばくもいらない」とはっきり歌った。

テレビが歌の内容に触れなかったのは、危うい気配を感じたからだろう。
翌日の新聞も、試合の結果や吉川の始球式をメインに取り上げて、歌詞には言及していなかった。何らかの配慮をしたのだろう。率直に言えば、権力に阿ったのだろう。

頼まれもしないのに(あるいは頼まれているのか)、声の大きいものに、マジョリティに、お金のありそうな方へ、気を廻し、気を遣い、そのことで自分も「勝ち組」に回ろうとする空気が充満している。
そうしないものに対して、眉をひそめて「空気を読まない」という人がたくさんいる。

吉川は、本業の「歌」で、そうした流れに逆らったという一点で男だと思った。



イチローの日米通算4000本安打を報じるアナウンサーが「長い大リーグの歴史で、4000本安打を打ったのはピート・ローズ、タイ・カッブの2人しかいません」と言うようになった。TBSだけでなく、NHKでさえそう言い始めた。
そう言った方が、日本人は喜ぶ。注目度が上がる。お利口さんたちがそういう気遣いをし始めたのだろう。

昨日は、朝の平和祈念式典に違和感を抱き、イチロー安打記録の報道に無念を感じ、口中が苦々しくなっていたが、吉川の雄姿で勇気づけられた。吉川の111km/hは剛速球だった。

やはり思うこと、信じることは言うべきなのだ。
原爆の話に比べれば些細な話だが、イチローの4000本安打についても、改めて言及しておこうと思った次第。


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