【2009年3月19日「MLBをだらだら愛す」掲載過去記事】
スタジアムの前に、緑のリンカーンコンチネンタルが止まっていたら「あ、ノムさんもう来てる」と思ったものだ。夫人が運転する、この板チョコのような車で球場入りする。縁起を担いで同じ場所に止める。夫人は勿論、サッチーではない。
昭和40年代、南海ホークスは野村克也のチームだった。昭和48(1971)年、プレイングマネージャーとしてチームを優勝に導く。日本シリーズは長嶋茂雄抜きの巨人に敗れ去ったが、あとから思えば、これが南海ホークスの最後の輝きだった。この頃までの野村は、監督であり、4番であり、捕手であり、何重にもチームの要だった。そしてこの時期までは、それに見合う数字を残していた。球場で見る野村は、背も低くて風采も上がらなかったが、「ぶあっ」というそのスイング音の凄さだけは他を圧していた。
野村南海が崩れはじめたのは、優勝の翌年くらいからだ。故障とスランプのために打率.211、12本塁打しか打てなかったのに、監督野村は選手野村を4番から外さなかった。ぐんぐん伸びてきた門田博光との確執も取りざたされた。「あいつはぶてとる(ふてくされている)」という生々しい声が新聞に載ったりした。選手野村はその後持ち直し、40歳を過ぎても驚異的な成績を上げていたが、チームは早々にペナントレースから離脱するようになった。
そんなある日、野村の監督解任が発表された。表ざたの解任理由は覚えていないが、マスコミは不倫と、その愛人(サッチー)による公私混同を書き立てた。
物心ついてから野村南海一筋で応援してきた私は、世の中の楽しみの半分が失われたような気がした。その時の落胆を、今でも頭の中で再現してみることができる。
野村はすでに40歳を過ぎていたが、現役にこだわり、ロッテに移籍した。野村の存在がいかに大きかったかは、そのときのロッテのレギュラー捕手だった村上公康が、その報を聞くや引退してしまったことでもうかがえる。
「生涯一捕手」としてさらに数年の現役生活を過ごし、46歳で引退。5歳も年下の王貞治よりも1年あとだった。前人未到の3000試合出場、10000打数は、野村の執念を表していた。
野村は引退したとたんに中年を飛び越して年寄りの顔になった。彼が球界復帰するまでには9年の月日を要した。盟友といわれる森昌彦は「野村を起用しないのは球界の損失だ」とまで言ったが、球界はその公私混同的な体質、とりわけ新夫人サッチーの怪しげな動きを敬遠したのだろう。
平成2(1990)年、ヤクルトの監督に復帰した野村は、東京弁も板に付き、いくらか明るくなっていた。これ以後ほぼ20年にわたって監督稼業を続け、今では名選手と言うより名監督として名前が知れ渡っている。齢70歳をとっくに過ぎて、まだ引退の2文字は口にする気配がない。
これほどの大人物になりながら、野村は常に世の中に対して拗ねたような発言を繰り返している。そして誰かに対する嫉妬の混じった批判をたびたび口にする。その対象はときにONであり、星野であったりするが、今はホークスのはるかに後輩に当たる城島だ。その批評は的を射ていることも多いが、70歳を超えた老人が、今、ことさらに言わなくてもよいのに、と思わせることも多い。
あの南海監督解任事件以後、野村の心にはどうしても満たされないものがあるのだろう。「月見草」発言は有名だが、誰からも祝福されて身を引くような体験を一度もしてこなかった野村には、輝けるもの、正しく見えるものへの反発心が今も黒い炎となって燃えているのだろう。
救いは、今の野村の発言には、常にいくばくかのユーモアが含まれていることだ。現役最晩年、西武に在籍した野村は、テレビマンユニオンの萩元晴彦の取材を受けたが、このときのインタビューは、テレビカメラを前にした人間とは思えない陰惨なものだった。その頃から比べれば、野村は彼なりの処世術で、発言の角を丸め、ユーモアで締める技を身につけた。
おそらくは、野村は自分の難儀な性格に苦笑しながら、“問題発言”を繰り返しているのだ。自分で自分の人生を嗤っているのだ。私はこれも一つの絵だな、と思い、野村ウォッチングを続けている。
■後日談:今年、楽天を勇退させられた野村だが、この人の半生、とりわけ現役時代にはもっと光があたっても良いと思う。
スタジアムの前に、緑のリンカーンコンチネンタルが止まっていたら「あ、ノムさんもう来てる」と思ったものだ。夫人が運転する、この板チョコのような車で球場入りする。縁起を担いで同じ場所に止める。夫人は勿論、サッチーではない。
昭和40年代、南海ホークスは野村克也のチームだった。昭和48(1971)年、プレイングマネージャーとしてチームを優勝に導く。日本シリーズは長嶋茂雄抜きの巨人に敗れ去ったが、あとから思えば、これが南海ホークスの最後の輝きだった。この頃までの野村は、監督であり、4番であり、捕手であり、何重にもチームの要だった。そしてこの時期までは、それに見合う数字を残していた。球場で見る野村は、背も低くて風采も上がらなかったが、「ぶあっ」というそのスイング音の凄さだけは他を圧していた。
野村南海が崩れはじめたのは、優勝の翌年くらいからだ。故障とスランプのために打率.211、12本塁打しか打てなかったのに、監督野村は選手野村を4番から外さなかった。ぐんぐん伸びてきた門田博光との確執も取りざたされた。「あいつはぶてとる(ふてくされている)」という生々しい声が新聞に載ったりした。選手野村はその後持ち直し、40歳を過ぎても驚異的な成績を上げていたが、チームは早々にペナントレースから離脱するようになった。
そんなある日、野村の監督解任が発表された。表ざたの解任理由は覚えていないが、マスコミは不倫と、その愛人(サッチー)による公私混同を書き立てた。
物心ついてから野村南海一筋で応援してきた私は、世の中の楽しみの半分が失われたような気がした。その時の落胆を、今でも頭の中で再現してみることができる。
野村はすでに40歳を過ぎていたが、現役にこだわり、ロッテに移籍した。野村の存在がいかに大きかったかは、そのときのロッテのレギュラー捕手だった村上公康が、その報を聞くや引退してしまったことでもうかがえる。
「生涯一捕手」としてさらに数年の現役生活を過ごし、46歳で引退。5歳も年下の王貞治よりも1年あとだった。前人未到の3000試合出場、10000打数は、野村の執念を表していた。
野村は引退したとたんに中年を飛び越して年寄りの顔になった。彼が球界復帰するまでには9年の月日を要した。盟友といわれる森昌彦は「野村を起用しないのは球界の損失だ」とまで言ったが、球界はその公私混同的な体質、とりわけ新夫人サッチーの怪しげな動きを敬遠したのだろう。
平成2(1990)年、ヤクルトの監督に復帰した野村は、東京弁も板に付き、いくらか明るくなっていた。これ以後ほぼ20年にわたって監督稼業を続け、今では名選手と言うより名監督として名前が知れ渡っている。齢70歳をとっくに過ぎて、まだ引退の2文字は口にする気配がない。
これほどの大人物になりながら、野村は常に世の中に対して拗ねたような発言を繰り返している。そして誰かに対する嫉妬の混じった批判をたびたび口にする。その対象はときにONであり、星野であったりするが、今はホークスのはるかに後輩に当たる城島だ。その批評は的を射ていることも多いが、70歳を超えた老人が、今、ことさらに言わなくてもよいのに、と思わせることも多い。
あの南海監督解任事件以後、野村の心にはどうしても満たされないものがあるのだろう。「月見草」発言は有名だが、誰からも祝福されて身を引くような体験を一度もしてこなかった野村には、輝けるもの、正しく見えるものへの反発心が今も黒い炎となって燃えているのだろう。
救いは、今の野村の発言には、常にいくばくかのユーモアが含まれていることだ。現役最晩年、西武に在籍した野村は、テレビマンユニオンの萩元晴彦の取材を受けたが、このときのインタビューは、テレビカメラを前にした人間とは思えない陰惨なものだった。その頃から比べれば、野村は彼なりの処世術で、発言の角を丸め、ユーモアで締める技を身につけた。
おそらくは、野村は自分の難儀な性格に苦笑しながら、“問題発言”を繰り返しているのだ。自分で自分の人生を嗤っているのだ。私はこれも一つの絵だな、と思い、野村ウォッチングを続けている。
■後日談:今年、楽天を勇退させられた野村だが、この人の半生、とりわけ現役時代にはもっと光があたっても良いと思う。
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