【2009年5月14日「MLBをだらだら愛す」掲載過去記事】
ずいぶん昔のことだが、酒場でスポーツ新聞の記者に「掛布雅之の魅力とは何か?」と問いかけたことがある。記者氏はしばらく腕を組んだ挙句「わからん、考えたこともない」と言った。
彼は自分の会社にいるよりもはるかに多くの時間を甲子園や他のスタジアムで過ごしていて、掛布はじめ阪神の選手がどんな車に乗っているかとか、誰と誰が仲がいいとか、どんな女性と付き合っているか、などの身辺の情報は、ひょっとすると自分の家族以上によく知っていた。選手のプレーもいちばん良い場所から毎日眺めていたはずだが、その眼は、選手のプレーそのものではなく、別のところに向いていたのだ。
今のスポーツ誌も、似たような記者によって書かれているような気がする。今日のスポーツ新聞各社のトップの見出し
・スポーツニッポン(東京)「ただいま5連勝 マー君ってすごい!」
・デイリースポーツ「球児悲劇」
・スポーツ報知「草彅29日いいとも」(巨人は敗戦)
・中日スポーツ「克服しろ、浅尾」
・東京中日スポーツ「井端負傷退場!」
各紙ともに総合スポーツ紙と名乗ってはいるが、どこかのチームの応援団の会報誌のようである。こんな見出しを365日考える方も大変だが、読む方だって大抵のことではない。新聞の中身もこの調子だ。勝てば有頂天になり、負ければ消沈するか、無理に良い所を見つけ針小棒大に取り上げる。「大本営発表」みたいな見出しもしばしばだ。さらに国語教育に挑戦しているのか、と言いたくなるようなダジャレや造語を連発する。素朴な疑問なのだが、そういう記事って読むほうも、書いてるほうも飽きないのだろうか。
要するに勝った日は「勝った勝った」と書き、負けた日は「負けた負けた」と書くだけで、スポーツ紙をどんなに読んでも、試合の微妙なニュアンスや流れは見えてこないのだ。勝敗や選手の成績は、STATSを見ればわかる。そのことについてわんわん書いてくれなくてもいい。それよりも数字では知ることのできないプレーの様子や、その背景、そしてその選手の能力や資質などを伝えてほしい。監督の戦略や思惑、両チームのタイムリーな戦力的な背景なども教えてほしい。そう思うのだ。
「ナンバー」という雑誌が創刊され、今も多くの読者に読まれているのは、スポーツ紙では知ることのできないいろいろな情報を知りたいと願う読者がいるからだと思う。
スポーツ紙の部数は、おそらく伸び悩んでいることだろう。情報メディアの多様化によって、試合の勝敗はリアルタイムで分かる。STATSだってネットですぐに入手できる。CS、BSで試合の放送も見ることができる。翌朝のスポーツ紙のやけくそみたいな元気な見出しは、かなり色あせていると思う。
もちろん、そんなスポーツ紙のカラーが好きな読者もたくさんいるだろうが、スポーツ紙の存在意義は以前よりはかなり薄れているのではないかと思う。紙面制作のために毎日費やされる莫大なエネルギーを、ほんの少し違う方向にむける時が来ていないだろうか。
ちなみに、私にとって掛布雅之とは「胸のすくような守備をする三塁手」だった。ゴロをグラブに収めるや、三塁側に1、2歩ぐっと体を預けて、その反動で矢のような球を一塁に送る。その送球はマウンドを通過したあたりでぐっと浮き上がっているように見えた。どこまでも伸びていきそうな、その直線を一塁手のミットが突如断ち切る。なんとも爽快な見ものだった。私にとって、掛布はそんな「守備の人」だったのだ。
■後日談:大それた話だが、このブログで野球ジャーナリズムに一石を投じたいと思っている。
ずいぶん昔のことだが、酒場でスポーツ新聞の記者に「掛布雅之の魅力とは何か?」と問いかけたことがある。記者氏はしばらく腕を組んだ挙句「わからん、考えたこともない」と言った。
彼は自分の会社にいるよりもはるかに多くの時間を甲子園や他のスタジアムで過ごしていて、掛布はじめ阪神の選手がどんな車に乗っているかとか、誰と誰が仲がいいとか、どんな女性と付き合っているか、などの身辺の情報は、ひょっとすると自分の家族以上によく知っていた。選手のプレーもいちばん良い場所から毎日眺めていたはずだが、その眼は、選手のプレーそのものではなく、別のところに向いていたのだ。
今のスポーツ誌も、似たような記者によって書かれているような気がする。今日のスポーツ新聞各社のトップの見出し
・スポーツニッポン(東京)「ただいま5連勝 マー君ってすごい!」
・デイリースポーツ「球児悲劇」
・スポーツ報知「草彅29日いいとも」(巨人は敗戦)
・中日スポーツ「克服しろ、浅尾」
・東京中日スポーツ「井端負傷退場!」
各紙ともに総合スポーツ紙と名乗ってはいるが、どこかのチームの応援団の会報誌のようである。こんな見出しを365日考える方も大変だが、読む方だって大抵のことではない。新聞の中身もこの調子だ。勝てば有頂天になり、負ければ消沈するか、無理に良い所を見つけ針小棒大に取り上げる。「大本営発表」みたいな見出しもしばしばだ。さらに国語教育に挑戦しているのか、と言いたくなるようなダジャレや造語を連発する。素朴な疑問なのだが、そういう記事って読むほうも、書いてるほうも飽きないのだろうか。
要するに勝った日は「勝った勝った」と書き、負けた日は「負けた負けた」と書くだけで、スポーツ紙をどんなに読んでも、試合の微妙なニュアンスや流れは見えてこないのだ。勝敗や選手の成績は、STATSを見ればわかる。そのことについてわんわん書いてくれなくてもいい。それよりも数字では知ることのできないプレーの様子や、その背景、そしてその選手の能力や資質などを伝えてほしい。監督の戦略や思惑、両チームのタイムリーな戦力的な背景なども教えてほしい。そう思うのだ。
「ナンバー」という雑誌が創刊され、今も多くの読者に読まれているのは、スポーツ紙では知ることのできないいろいろな情報を知りたいと願う読者がいるからだと思う。
スポーツ紙の部数は、おそらく伸び悩んでいることだろう。情報メディアの多様化によって、試合の勝敗はリアルタイムで分かる。STATSだってネットですぐに入手できる。CS、BSで試合の放送も見ることができる。翌朝のスポーツ紙のやけくそみたいな元気な見出しは、かなり色あせていると思う。
もちろん、そんなスポーツ紙のカラーが好きな読者もたくさんいるだろうが、スポーツ紙の存在意義は以前よりはかなり薄れているのではないかと思う。紙面制作のために毎日費やされる莫大なエネルギーを、ほんの少し違う方向にむける時が来ていないだろうか。
ちなみに、私にとって掛布雅之とは「胸のすくような守備をする三塁手」だった。ゴロをグラブに収めるや、三塁側に1、2歩ぐっと体を預けて、その反動で矢のような球を一塁に送る。その送球はマウンドを通過したあたりでぐっと浮き上がっているように見えた。どこまでも伸びていきそうな、その直線を一塁手のミットが突如断ち切る。なんとも爽快な見ものだった。私にとって、掛布はそんな「守備の人」だったのだ。
■後日談:大それた話だが、このブログで野球ジャーナリズムに一石を投じたいと思っている。
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