報知新聞蛭間豊章記者より、『隔月刊ベースボール・マガジン』に掲載された原稿をお送りいただいた。
「転載してよろしい」とお許しをいただいたので、掲載させていただくことにした。
なお、文中に出てくる各選手のキャリアSTATSは広尾が作成。
蛭間豊章記者のBaseball Inside

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マイナー・リーグの一つに「ジョー・バウマン賞」という、リーグ、レベルを問わずに最も本塁打を打った選手に贈られる賞が制定されたのは2002年。それは2001年にバリー・ボンズ(ジャイアンツ)が73本塁打するまで、米プロ球界の年間最多本塁打72本を放った1954年のジョー・バウマンの快記録を称えるために作られた。
薄給の選手が多いだけに、選手には副賞として1本塁打当たり200ドルの賞金も贈られる。

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バウマンが記録を作った1954年当時は、マイナー・リーグがAAA、AA、A、B、C 、Dと6つのクラスに別れていた時代。バウマンは198センチ、102キロと当時としては巨漢な左打者。1941年にプロデビュー。一塁手と投手の掛け持ちで目立った数字を残していなかった。、兵役から戻っていきなりブレーブスのキャンプに招待されるも、復員した元大リーガーに押しのけられてC級のアマリロに派遣された。すると、いきなり48本塁打でタイトルを獲得。翌年も38本塁打、打率3割5分、151四球も選び再びブレーブスのキャンプに招待され、レギュラーシーズンではAAA級で1打数ノーヒット、A級で2割7分5厘、10本塁打。球団は素質を買っていたが、「故郷で靴紐を売っても、もっと金を稼げる」として退団。その後故郷のオクラホマに戻り、幹線道路のルート66でガソリンスタンドを経営する傍ら、月500ドルの条件によって3年間セミプロリーグでプレーしていた。

しかし、再びプロ野球でやる夢を抱いて1952年、Cクラスのロングホーン・リーグ、アルテシアにテスト入団。30歳で経験豊かなバウマンは各球団の若手投手を席巻、打率3割7分5厘、50本塁打、175打点といきなり三冠王。翌年も53本塁打した後、監督とぶつかり同一リーグのロズウェルに移籍した。 1954年、球界初の3年連続50本塁打をマークしたものの残り14試合で59本。当時のマイナー記録69本更新など誰も思わなかった。ところが、8月31日の試合で4本塁打の固め打ちすると、本塁打を量産。地元ロズウェルの本拠地にはファンが殺到。バックネット前にもファンを入れるほどの盛況となった。当時の事をバウマンは「毎試合、打席のすぐそばにカメラマンが写真をとろうと構えていた。本当にプレッシャーがあったよ」と話しているが、この年に創刊されたスポーツ・イラストレイテッド誌でも特集されている。球界初の70号が飛びだしたのはレギュラーシーズン最終日の敵地でのアルテシア戦。ダブルヘッダー第1試合に監督の心遣いで1番に座ったバウマンは初回、キューバ出身のホゼ・ガヤードの86マイルの速球を右翼席にたたき込んだ。そして第2試合で2本塁打を加えて72本塁打まで伸ばした。

もっとも、第2試合では、翌日からのプレーオフを考慮して野手がマウンドに上がった幸運を活かしたという。 この大記録に対して翌年、ロズウェルの監督となったトム・ジョーダンは「狭いスタジアムに外野向きの風が良く吹いていた。また当時は左腕がこのリーグにほとんどいなかった」と要因を説明している。バウマンは結局、一度もメジャーに上がれなかったが、1991年の取材に「セミプロの3年間が無駄だった。あの時、メジャーを目指していれば昇格出来たかもしれないのに」と後悔の念をもらしていた。

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