なんと、セが6戦全勝で盛り返す。



この選手は存在自身が「野球史」だ。プレイヤーとしても本当に魅力的だった。

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キャリアSTATS

①4シーム
両腕を思いきり高く上げて体を「ぐん」とそらすと、打者に背番号を見せつけるように体を回転させ、足を「ヤ」の字に上げると一瞬静止、ここから偉大な上体を前傾させる。そして運動エネルギーを指先の一点に集中させて、糸を引くような速球を投げ込むのだ。
精妙な機械が動くようで、野茂の投球フォームは小気味よい。何度見ても見飽きなかった。
球質はいかにも重そう。捕手のミットに「どーん」と突き刺さった。軌道はきれいなまっすぐだったが、多くの打者は振り遅れた。ファウルチップが多かったのも、球威を物語っている。
機械がほんの少し狂うと、恐ろしい勢いのワンバウンドになった。捕手が弾けるように球を追いかけたが後の祭り。野茂英雄は、暴投も売り物だった。
②フォーク、セットポジション
速球と同じフォームから、シュン、と落ちるフォークを投じた。恐らく、MLB選手にとって、こんな変化球は初めてだったのだろう。面白いように空振りをした。
走者がいないときは大層なフォームで投げたが、走者が出るともっと普通な投げ方もできた。クイックでも投げることができた。割と器用だったのだ。
多少球威は落ちるように感じられたが、コントロールは良くなった。
日本でもアメリカでも野茂は思いっきり四球を出したから、走者を背負っての投球は必須の要素だった。
表情を変えることなく薄氷のマウンドを悠々と相務めるのも、野茂の魅力だった。
今から思えば、松坂大輔と野茂は共通するところが多い。体力で勝る野茂の方が、自分のスタイルを押し通すことができたが。
③「言葉」ではないメッセージ
野茂が大リーグに挑戦すると宣言した時、私はそれが何を意味するのかよく理解できなかった。
メディアは「野茂英雄が、大リーグに行きたいとわがままを言っている」と報じていた。近鉄フロントは野茂を「恩知らず」と言った。
それを振り切って、野茂はアメリカに行った。
「なぜなのか?」新聞報道では全く分からなかった。
野茂自身も、一般の人々が納得するようなコメントはしなかった。
しかし、それから数か月後、野茂英雄は自らのプレーで、それがいかに素晴らしい「決断」だったかを教えてくれたのだ。
我々は70年代後半から、MLBを見ていた。どんな選手がいるかも知っていた。
しかしマイナー契約とはどういうことなのか?開幕ロースターに入るとはどういうことなのか?実感としては理解できなかった。
そしてメジャーでプレーすると言うことが、どれだけすごいことなのかも本当の意味では理解していなかった。
自分たちと同じ日本人が、MLBのマウンドに立ち、アメリカの打者と勝負をする。そして日本時代と同様、打者を手玉に取る。
それは、何と気持ちの良いことなのか!何という、わくわく体験なのか!
野茂が古巣に不義理をかましてまでやりたかったのは、こういう挑戦だったのか。
私たちは、野茂英雄を通じて、MLBの本当の魅力を知るに至ったのだ。
野茂が活躍し出した瞬間に、NPBは確実に色褪せた存在になった。
野茂はMLBの魅力と、NPBの旧弊かつ頑迷な部分を、野球のプレーと言う「言葉にならないメッセージ」で鮮明に語った。
彼がいなければ、イチローも松井も、ダルビッシュも、田中将大も絶対に現れなかった。


④不変
野茂は2004年以降、本来の投球ができなくなった。制球が定まらなくなり、球威も衰えた。
しかし、彼はその投球スタイルを全く変えなかった。
2008年、およそ2年ぶりにMLBのマウンドに現れた野茂英雄は、全盛期と変わらない大振りなフォームでボールを投げた。
しかし、その指先から投じられるボールはお辞儀をしていた。打者はあまりにも簡単にとらえられるボールに一瞬戸惑っているようだったが、どんどん快打を飛ばした。
それが野茂英雄の最後の雄姿だった。
「変えない」のか、「変えられない」のか。野茂は野球だけでなく、引退後のスタイルも「素」のままだ。
解説者の本で書いたが、新人投手がヒーローインタビューで客受けするコメントをすると
「新人やのに、うまいことしゃべりますねえ、僕にはとてもできません」
思ったことをそのまま、ごろっと言葉にするだけ。
野球殿堂入りしても、その「天然」ぶりは変わらない。
野茂英雄を見ていると、他の野球人たちがいかに多くの虚飾を身にまとっているかが見えてくる。
野茂は常に、言葉にならないメッセージで、我々に「本当のこと」だけを教えてくれている。野球界の発展のために、ますます重要な人物になってくるに違いない。
みなさんの「野茂英雄」「他の選手」への思い、コメントにお寄せください。数がまとまったら記事にします
↓
そうですね、は流行語だった?
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③「言葉」ではないメッセージ
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彼がいなければ、イチローも松井も、ダルビッシュも、田中将大も絶対に現れなかった。
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しかし、彼はその投球スタイルを全く変えなかった。
2008年、およそ2年ぶりにMLBのマウンドに現れた野茂英雄は、全盛期と変わらない大振りなフォームでボールを投げた。
しかし、その指先から投じられるボールはお辞儀をしていた。打者はあまりにも簡単にとらえられるボールに一瞬戸惑っているようだったが、どんどん快打を飛ばした。
それが野茂英雄の最後の雄姿だった。
「変えない」のか、「変えられない」のか。野茂は野球だけでなく、引退後のスタイルも「素」のままだ。
解説者の本で書いたが、新人投手がヒーローインタビューで客受けするコメントをすると
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思ったことをそのまま、ごろっと言葉にするだけ。
野球殿堂入りしても、その「天然」ぶりは変わらない。
野茂英雄を見ていると、他の野球人たちがいかに多くの虚飾を身にまとっているかが見えてくる。
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コメント
コメント一覧
観客を感動させるパフォーマンスを披露するアスリートに国籍や国境など関係ありません。大切なのは自分たちが取り組んでいるそれぞれの競技の普及・発展にどれだけ貢献することができるかです。それを成し遂げて初めて、こういう選手を生み出す国におけるスポーツ文化の土壌が検証されるのです。それはもちろん偏狭なナショナリズムによって生み出されるものではありません。
97年にドジャースタジアムのクラブハウスで彼に短い時間ですが話を聞いたとき、ああこの男は心から野球を、そしてメジャーリーグを愛しているんだなというのが痛いほど伝わってきました。
日本で多くの野球ファンの目をメジャーに向けさせたきっかけを作ったことも含め、彼のベースボールに対する貢献度は殿堂入り、国民栄誉賞、文化勲章受章でもまだ足らない、「球界世界遺産」に匹敵すると確信しています。
また、不思議と松坂ほどフォアボールで冷や冷やしませんでした。きっと塁が埋まれば、また連続三振取るぞ。そんな気持ちで見つめていました。
MLBデビューの年は、小さな新聞社で働いていましたが、当時はまだインターネット前夜。共同通信からテレックスが入るんですね。経済紙だったので、スポーツその他の話題はほとんどがゴミ箱行きでしたが、私にとっては宝の山。折り重なったファクス紙にダイブして、ワシャワシャと野茂の記事を読み漁っていました。もちろん短信でしたが、「またボンズから三振取ったのかなあ」などとほくそ笑む。徹夜仕事が多いなか、ささやかな楽しみでした。
それ以前にも野茂の存在自体は知っていたもののまさしく「知ってる」レベルでしたが、幸運にもその試合を見れたことで一気に思い入れの強い選手となりました。船内でドキドキしながら見ていたのを思い出します。
翌日に宿泊したホテルのロビーで英字新聞などに野茂の見出しが大きく載っていたことに大いに誇りを感じたものです。
イチローにも言えることですが特徴的なそのフォームは、野球をやっていた少年たちのほとんどは一度はマネしたことでしょう。自分もまたその一人でした。
実はこの個性的なフォームというのも野球というスポーツの人気・知名度には重要なファクターだと思うのです。現にヤクルトの小川なんかいい例だと思います。実際に似ているかは別にして、そのフォームからしたニックネームを戴いて名も知られたと思いますし。
残念ながら全盛期にかち合うことは出来なかったのですが、最後の輝きには立ち会えたことは幸せなことだったと思います。自分がメジャーに興味を持ち始めたのも、イチローではなく野茂のおかげであることは紛れもないことです。
イチローや松井は日本時代から知っていましたが、はじめからメジャーの選手として知って好きになった日本人選手は野茂が最初でそして最後となるでしょう。
ドラフトであれだけの重複指名になる・・・
私自身も含め正直野茂(読みもノシゲかと思ってました)という選手が
如何なる選手なのか詳しくは知らない人が殆どだったはずですが
「とにかく凄いらしいぞ。どこが引くんだろ?」
といったムード一色になっていたのを思い出します。
結果、前年パリーグを劇的な形で制した近鉄が
箱の中に最後まで残ってた1枚を引いて当てるわけですが
これは本当に、結果的に良かったと思います。
とにかく良くも悪くも「キャラ」が立った選手の集団でしたし、
吉井も言うようにメジャー大好きな選手も多く、またそういった
個性を許容する首脳陣や風土があったように見えました。
初年度年俸が1000万に決まった時も「あの」加藤哲が
「1試合も投げてない奴に1000万も払うのか」と噛みついたりしたのも
いかにも「近鉄」だなあと思ったものです。
当然、キャンプやオープン戦には近鉄にあるまじき報道陣が押し寄せ、
我々ファンは毎日のように野茂情報を享受できました。
しかし、なかなか芳しい情報が入ってきません。
紅白戦では真喜志にHRを打たれるなどというレアなものを
(大したことではないのですが個人的に強烈に覚えているので)
見せてくれたり、プロ初登板では藤井寺球場の試合ながら
関東でも中継されるという異常事態の中、黄金期西武に粉砕される始末。
「もしかして壮大なハズレだったのでは・・・」
こんなムードが漂い始めた頃に挙げた初勝利が
皆様ご存知の、西宮での17奪三振ショーでした。
「直球で勝負せんか!」などと言ったことを批判されたことが
ありましたが、清原の絶頂期に相対した当時のパのエースの
ピッチングスタイルを見ればそれも理解できなくはありません。
西崎、伊良部、村田らは決め球と直球に絶対の自信を持った
猛者が揃っていましたし、打者もセに比べてバットを短く持つ
選手は少なかった印象があります。
そんな中で野茂は間違いなく「パリーグ人間」でした。
現役末期の門田が「絶対に野茂のフォークを打つ」と宣言し、
野茂が投げる直前にボックス内を1歩前に進んで
実際にHRを打ったことがありましたが、そんなちょっと
インチキくさい事をさせるほど、あの門田を本気にさせたという点で
「とんでもない投手が出現した」と思わせるに十分でした。
投打は逆ですが、山田が清原に異常な闘志を燃やしていたのと
共通した点があると思われます。
門田の最後の試合となった試合は平和台球場の最後の試合
でもありましたが、ここでも野茂は1-0で負けはしたものの
大打者の最後を飾るに相応しい投げっぷりでした。
門田も最後に野茂と対戦できて嬉しかったと、取材で語っていました。
個人的な偏見ですが、大阪ドームに移ったあたり、いや、鈴木が
監督になった辺りで「近鉄らしさ」が大分薄れてしまっていたように思えます。
パ全体でも、かつての本当に人気が無かった時代の選手と、
西崎阿波野のような「新人類」が混在した時期でした。
その時代の末期に現れた大輪の花が野茂だったように感じます。
「驚いたよ。子どもがみんなトルネードをしたがるんだ」
と言っていたのをよく覚えています。
フーさん様が書かれたのと同じですね。
今、こんな選手がいるとは思えません。
360モンキーズにやってもらわなくてもフォームだけで
誰だか分かる選手が今後出る可能性はあるのでしょうか(笑)
しかし、それ以上に強烈だったのは個性的なフォームです。野茂のあの投球フォームを見るため(だけにと言っても過言ではないほど)テレビを付けました。イチローのあの所作を見るために車で何時間も飛ばしてアーリントンに足を運んだのと似ています。結果が伴ってのプロ選手ですが、“過程”であるフォームそのものも楽しみでした。まさに金の取れる役者です。
黄昏。野茂は現役にこだわり、老いも衰えも全部さらし、最後は自分が求められているパフォーマンスが出来なくなったことを理由に身を引きました。陽光差し込むLAで輝いていた野茂の全盛期は実はそれほど長くはなく、その後は挫折と復活の繰り返しで、晩年はジャーニーマンとして暮らしました。剛速球のイメージが強い野茂ですが、150km/hを投げたのは最初の数年だけ。ボロボロになっても黙々と野球を続けるその後ろ姿に胸が熱くなりました。不思議と最近のイチローにも同じ雰囲気が漂っています。
イチローの回でイチローとともに生きていると書きました。その言葉を他にかけられるとしたら、野茂のみでした。
一人暮らしの新生活、何もかも目新しい中、テレビではアメリカに渡った野茂の姿が躍動していました。
それまで日本のプロ野球しか知らなかった私は、野茂を通して見るMLBの世界の虜になりました。周りから呆れられるくらいに。
選手一人ひとりの個性、球場の個性、クールなユニフォームのデザイン、すべてが鮮やかに見えたものです。
あの高揚感は今でも瑞々しい記憶であり、強烈なノスタルジーを感じます。
当然野茂のファンではありましたが、並み居る強打者たちも心をときめかせてくれました。
ジャイアンツにはボンズとウィリアムス、パドレスにはグウィン、ロッキーズのブレイクストリートボンバーズも強力。
そんな中、私のお気に入りはアストロズのキラーB’sでした。バークマンではなく、デレク・ベルの方です。懐かしいなぁ。
きっと、野茂の存在が無ければ、私は野球の愉しみの10%も知らないままで過ごしたことでしょう。
そう考えると、感謝してもしきれない存在です。
レッドソックス時代2回目のNO-NOを達成した翌日、当時の米大統領であったジョージWブッシュが会議の席で参加者(当時のボストン市長)に「昨日のノモは凄かったね」と語りかけて会場がドッと沸くのをテレビで観て、アメリカに住んでこんなに日本人である事を誇らしく思ったことは無い、とその時思いました。
遠くに見える日本人の投手が、この巨大なスタジアムの声援を一人で受け止めている。
どなたかが「高揚感」という言葉をつかっていらっしゃいましたが、その時感じた誇らしい気持ちと高揚感は、本当に半端なかった。18年たっても、まったく忘れられません。
試合後に行ったスタジアムのショップで、野茂のジャージーが現地のファンに飛ぶように売れていたこと、小さな男の子が本当にうれしそうに「NOMO」を着ていたことも、強烈に覚えています。
野球ファンとして、今MLBで大活躍している日本人に対する誇らしい気持ちは変わりませんが、あの頃、メジャーリーグの選手として存在していたのは野茂ただ一人だったし、その後野茂に続く選手がいるのかどうかも、誰にもわからなかった。
18年前に野茂を見て感じたのと同じ高揚感は、もう2度と感じることはないでしょう。
しかし高橋智だけを観に行く気にはさらさらなれない(笑)トラキチの自分は対戦相手をチェックして足を運ぶわけです。その目玉の一人が野茂英雄でした。
野茂が投げブライアントが打ち捕手の中島聡が投手の星野伸之よりも速い球を返す、嗚呼古き良きパ・リーグ。
まさかその数年後にイチローという不世出の選手が現れ野茂英雄はメジャーリーグという新たな野球を教えてくれるなど想像もしなかった思春期の自分に「今観てる風景は貴重なんやで」言ってやりたいです。
トルネードと振り子の真似したことないあの時代の野球ファンているんでしょうかw
今でも野茂より好きな選手は現れません。
「高めの速球の伸びが誰かに似ている=江川だ!」とひらめきました。
実際に野茂を見たのは2試合のみ、近鉄時代のオリックス戦とドジャースに移籍して初めての日米野球。近鉄時代のイチローとの対戦はあやふやですが、日米野球ではセンター前に打たれました。
プレー以外でもドジャース時代のユニホームの着こなし(踝が隠れるやつ)が恰好いいと思っていました。
二度目のドジャース時代、松井秀と対戦したときは松井がヒットを打って野茂が勝ち投手になることを祈っていましたが、結果は松井に本塁打を打たれ負け投手。日米野球で三振を取ったリベンジをされたかたちになりました。